‐‐1904年、春の第一月第一週、エストーラ、インセル‐‐
インセルの町は今日もうすい靄の中から目覚めた。教会の鐘楼が時間を告げるのに15秒遅れて、振り子時計がくぐもった音を鳴らした。
目を覚ました家主はカーテンを開ける。薄い靄のかかった先には、白く瞬く太陽がある。彼女は思い切り背伸びをして、凝り固まった体を鳴らした。
先ずはスリッパを履き、寝具を纏ったままキッチンへ向かう。狭いインセルの家賃は高く、ベッドからキッチンまでの距離はせいぜいが10歩だ。
隣の部屋からドタバタと起きる音がする。今日が休日で、仕事がないことを忘れている忙しなさだ。時間通りに鳴る時計よりも手早く動く隣室の住人が、恐らく着替えながらバタバタと床を走る。家主はクックと笑いを堪えながら、パンとバターを取り出した。
朝食に贅沢は必要ない。高い家賃と折り合いをつけるならば、食事はその程度で十分だった。大都市圏の食料事情を解決するために、国から義援金を得てなされる大規模な食料生産によってか、インセルの周辺には戦前の2倍はある穀倉地帯が広がっている。
勿論そんなことを彼女は知る由もない。ただ高い家賃と折り合いをつけるために一番安いパンを買い、高くつく野菜や肉を羨みながら、べっとりとバターを塗りたくって頬張るだけである。
隣室の騒々しさが収まり、彼女に優雅な朝食の時間がやって来る。今日は2日に一度だけある1日二食の豪華な日であり、しかも仕事は休みという最高の日でもあった。
彼女はパンを頬張ると、桶と洗濯板を取り出した。これらを脇に抱えた彼女は、共同の井戸へと向かう。
気の抜けた服装の彼女は上機嫌に井戸の水を汲み上げ、その中に服を入れる。洗濯用のオリーブ油で作られた石鹸を付け、水浸しの服をひたすら洗濯板で擦った。その間に、隣室から寝癖を付けたままの隣人が現れる。彼は大きな欠伸をし、項垂れながら井戸に向かっていく。
「どーも」
「ども」
二人は軽い挨拶を交わすと、無言で各々の作業を続けた。石鹸が十分に泡立ち、全ての洗濯物を洗い終えると、彼女は一度水を捨て、井戸水を汲みなおす。新たな井戸水を桶に移し、立てた泡が浮かんでくるのをうっとりしながら眺めた。そして、小さく「よし」と呟くと、彼女は水と洗濯ものをかき混ぜて石鹸を洗い落とす。仕上げに再び井戸水を汲み、今度はその水を直接洗濯物にかけた。洗濯板に擦られて皺のついた服が、少しだけ伸びる。
洗濯を終えた彼女は服の水を絞ると、二、三度洗濯物を払い、皺を伸ばした。
そして、綺麗になった洗濯物を桶に入れなおし、日向の洗濯掛けに向かう。先客は既に数名いたようで、我が物顔で洗濯竿全域に広がっている。彼女はそれらの服を少しだけ退けると、水浸しの服をかけ始めた。
朝靄はいつの間にか晴れ、太陽は煌々とインセルを照らしていた。
彼女は服を伸ばし、そして掛けるという作業を繰り返し、ついに最後の一着をかけ終えようとした。
その時、ふと顔を持ち上げると、巨大な「何か」が彼女目掛けて落ちてくるのに気付いた。それは瞬く間に彼女の頭上に迫り、身を屈めた直後に自宅の庭に着弾する。同時に強烈な閃光が辺りを包み込み、洗濯物や物干し竿、井戸が破片となって飛び散った。身を屈めていた彼女も、一瞬で周囲が焼けつくような高温になったことに気づく。皮膚が危険信号を読み取り、全身に痛みという痛みが迸った。耳は鼓膜が破れたためか籠った音しかせず、しかし何らかの不快感と痛みが耳の中で暴れている事だけは確かだった。
彼女は恐る恐る顔を上げる。砂煙の中に、石片や折れた建材などがある。
隣室の男性は火達磨になりながら転げ回り、彼女自身も立ち上がれないほどの痛みが全身に貼りついている。周囲は彼と同じように赤い炎を上げて燃え盛っており、黒い煙が目の前で濛々と上がった。
「あああああああああ……」
力のない悲鳴が零れる。彼女は助けを求めて地面を這って進むが、身動ぎするたびに石片や、材木の破片が腕と足に突き刺さる。彼女は黒い煙を恨めしそうに見つめながら、静かに力尽きた。