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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1903年
192/361

‐‐1903年秋の第二月第三週、エストーラ、ベルクート宮‐‐

 宮殿のエントランスへと続く広い道の真ん中を、フェケッテとジェロニモの二人が肩を並べて歩く。告別式の警備を終えたフェケッテは、普段とは異なり黒い喪服を身に纏い、耳を空気に曝け出している。


「お前は参列しなくて良かったのか?」


「そうしたいのは山々だが、私には国を守る義務があるのでな」


 ジェロニモは短くそう答え、相手の短い歩幅に合わせて速度を緩める。ノースタットの宮殿前には、地面に膝をついて神に祈る人の姿が幾つもあった。


 フェケッテはそれらに一瞥をくれる。彼からすれば、その祈りは戦場に何らの影響も齎さないものである。祈りは精神的な支柱であり、ここにいる人々の心をいくらかは軽くするに違いない。

 緑の豊かな庭園と、その奥地にある、もぬけの殻となった大きな動物公園に向けて、追悼の祈りが唱えられている。


「フェルディナンド君は愛されていたようだな」


 フェケッテはわざと、言葉遣いを崩してみる。ジェロニモは一瞬表情を強張らせたが、即座に真顔に戻って答えた。


「当然だ。皇太孫だからね」


 長い庭園の通路から、宮殿へと至る。両翼を広げた犬鷲(ベルクート)の像が、彼らを出迎えた。


 玄関を守る近衛兵が敬礼をする。ジェロニモは誰よりも素早くそれに応じ、フェケッテはゆっくりと同じ動作を返した。


 扉を開けると、広いエントランスホールの冷えた空気が彼らを包む。着飾った廷臣も黒一色で喪に服し、肖像画もどこか悲し気に視線を動かしている。


「人間の心持ち一つで、こうも見え方が変わるのだな」


 ジェロニモがぽつりと呟く。フェケッテは耳を立て、鼻を鳴らして先の一歩を踏み出した。


 宮殿全体が仄暗いように思われた。天井や壁を彩る宗教画にも影が射し、肖像画は虚ろな瞳を歩調に合わせて動かす。不必要な輝きを放つ黄金の額縁も、金特有の鈍い暗色を際立たせている。

 喪服の者とすれ違うと、フェケッテは不快そうに眉を顰める。燻蒸された教会の残り香は、鼻の効くコボルト達には耐え難いものだ。


 フェケッテは無意識のうちにポケットに手を入れる。手に煙草の箱が当たると、ジェロニモを一瞥してポケットから手を出した。

 部屋という部屋が静まり返っている。陶磁を飾った部屋や、リード・オルガンの置かれた音楽室からも、よく鍛錬された手遊びの音は聞こえない。そもそも家臣の執務室は総じて不在で、前を通り過ぎる意味も必要も感じない程であった。


「ペアリスが陥落したってことは、ノースタットへの侵攻も時間の問題だな。どうするつもりだ?」


「私は徹底抗戦の準備がある。地の利を生かして、敵の息切れを狙う。出来る限りこちらの損害を小さくして、人員不足を誘発させる必要があるな」


「シュッツモートからごり押ししてきてもおかしくないが、正道は黒い森の踏破だな」


「いずれも狭い道だ、戦車による走破は困難だろう。手薄の歩兵を要所で叩けば、勝ち筋は無くても、負け筋を潰せる」


 ジェロニモは粛々と答える。フェケッテは口元を歪めて牙を剥き出しにした。戦場の現実、一際残酷で救いのない現実を見知らずに、盤面で駒遊びをするジェロニモの酷薄さたるや。


 ノースタットの重鎮を食い殺してやりたいと幾度思っただろうか。彼らは『簡単に』戦場を支配してしまうが、前線は『簡単に』犠牲者が積もっていく。

 皮肉を零そうかと彼が口を正した刹那、フェケッテの湿った鼻先に、ジェロニモの鋭い視線が飛ぶ。


「お前には俺が酷薄な人間に見えるだろうな」


 不意を突かれたフェケッテは、耳を立て、尻尾を縮こませる。


「責めているわけではない。俺は前線で戦う力がないから、宮廷で策を練るのだ。戦争の天才とは、まことに性悪のことを指す。相手の嫌がることをするのが戦争の基本だからな」


 呆気にとられるフェケッテを傍目に、ジェロニモは一つ息継ぎをし、再び粛々と言葉を連ねた。


「だからな、指揮を執るだけの俺はお前たちを見捨てていると非難されても何も言えない。ただ、俺は兵士達が無秩序に抵抗するよりは幾らか犠牲を少なくすることに貢献するだろう。俺にはそういう才がある。プロアニア軍の合理的な行動は、それこそ手に取るようにわかる」


 エストーラの戦死者は極端に少ない。犠牲者のほとんどが経済封鎖による煽りを受けた餓死者である。それは皇帝の『内向きの優しさ』も一つの要因だったが、そもそも国境の警備を手配するジェロニモが辣腕を振るったお陰もあった。

 彼は斥候や敵兵との小競り合いでも、適切な采配を取り、常に兵士・民間人の犠牲者を殆ど出さずにいる。プロアニアからすれば「時代遅れの」旧式装備を持つコボルト騎兵と竜騎兵、歩兵だけという非常に小規模な軍隊で、相手に情報さえ含めた戦果を殆ど取らせていないのは、異常と言っても良かった。


「本当なら、お前は攻め込んで勝てたと思うのか?」


 フェケッテは僅かばかりの希望を込めて尋ねた。


「無理だ。相手が攻めづらい立地は、こちらも攻めづらく、こちらの戦力では一つの都市も落とせないだろう。こちらに攻めを誘引して、敵の戦力を分散させるのが、和平の最適な方法ではあった」


 ジェロニモはきっぱりと答える。フェケッテは口元を歪ませて、「それじゃあ俺たちは……」と言葉を詰まらせる。


 あの皇帝のせいで、戦争が長引いたんじゃないのか。大戦犯はあいつじゃないのか。そうした強い憤りを、彼は必死に押し殺した。ジェロニモの冷めた瞳が彼の湿った鼻を見つめる。


「憤る気持ちは私も同じだよ。だが、抵抗の代償は君たちの命だ。陛下の御心も分かるだろう」


 フェケッテは顔を歪める。鼻先に皺を重ね、歯茎を剥き出しにして唸った。


 ‐‐結局俺たちは、こいつらの掌の上なのか?‐‐


 二人は生きる者のいない長い廊下を直進し、巡回の最後に皇帝の執務室へと至る。執務室の前で立ち止まったジェロニモは、ノックをするために作った拳を、鍵穴の前で止めた。


 家臣と皇帝が集って泣いている。あの老人を慰めるために、廷臣一同が一丸となって部屋に集っている。

 取り乱した皇帝の声が僅かに漏れて聞こえた。


「未来を担うべき若い命が次々と散っていく!なぜこんな惨いことになるのか!私が死ぬのならばどれほどよかったことか!」


「陛下、お気を確かに」


 アインファクスの落ち着いた声である。声に重ねて、器を地面に叩きつける激しい破砕音が響いた。


「フェルディナンド!こんなぼけ老人を守るために戦地に送られるなど、なんという不幸な子だろう!嗚呼、何事も、私などいなければもっと丸く収まっていたに違いない!父の言う通り、私には帝冠を戴く資格はないのだ!妻も息子夫婦も、孫も!誰一人守れないのに何が……」


 ジェロニモは横から突き飛ばされる。荒い呼吸で喉を鳴らしたフェケッテは、扉を蹴り破った。


 家臣に囲まれ、目を真っ赤にした老人目掛けて、フェケッテは拳を振り上げた。


 無防備な皇帝はなされるがまま頬を殴り飛ばされ、地面に横たわる。起き上がる間もなく、フェケッテは彼の胸倉を掴んだ。


「ふざけんな!」

「な、何ごとだ……?」


 ひゅうひゅうという荒い呼吸を互いに掛け合いながら、二人は睨みあう。片や怒りに満ちた怒りの形相であり、片や涙目で震える憐れな老人である。


「幸せだったから守ろうとしたんじゃねぇのか!?お前の勝手な気持ち一つで、人を勝手に不幸にしてんじゃねぇよ!」


 家臣と近衛兵がフェケッテを引き剥がす。皇帝はフェケッテを見つめたまま、涙を垂れ流している。真っ赤に充血した目が、愁いを帯びた虚ろなものから、僅かに光を取り戻していた。


「大逆罪、大逆罪だ!」


「ま、待て。彼のことを悪く言わないでおくれ。私は……」


「お前がさぁ!幸せなときは、みんな幸せな顔するんだろ!めそめそ小さくなって泣きやがって!お前の心ひとつで自由な心奪われてたまるか!俺は俺の意志で、お前らを纏めて守ってんだよ!」


 絵画の中にある梟が、揺らぐことのない丸い瞳で皇帝を真っすぐに見つめている。オオウミガラスの陶製人形が悲し気にフェケッテの背中を見守っている。ヘルムートは荒い呼吸を整えて、赤く腫れた自分の頬を摩った。


「……すまなかった。私は、君に酷いことをしていたのだね」


 フェケッテは拘束する手を振りほどき、皇帝を威嚇する。老帝はふらつきながら立ち上がった。


「ムスコール大公国からこちらに招かれた時に、私は臣民を幸せにしたいと決意をして、この地に赴いた。しかし、もしかしたら、私は臣民に幸せを押し付けていたのかもしれないね……」


「目、醒めたかよ」


「……ああ。ありがとう」


 ノアが感涙にむせぶと、感染するように家臣の中から涙を流すものが現れる。フェケッテは小さく尻尾を振り、そっぽを向く。彼はそのまま近衛兵の前に両手を出した。


「大逆罪ってどんな罪なんだ?」


「ふふっ、大逆罪どころか勲章ものだと思うよ」


 背後から声を受けて、フェケッテは頭を掻く。彼はきまりが悪そうに部屋を後にした。


 フェケッテが室外に出るや否や、外務官が一直線に駆けてくる。彼は真っ青な顔で「すいません!」と叫び、フェケッテを押しのける。


「フッサレル様、フッサレル様はいますか!大変なことになりました!」


「なんだ、騒々しい!」


 フッサレルは外務官の元に近寄り、険しい表情で叱った。肩で息をする外務官は、ムスコール大公国の親書を開いて見せた。


「ムスコール大公国から、宣戦布告をされました!」


 室内が騒然とした。皇帝の小さな肩は、小刻みに震えている。





‐‐1903年、秋の第二月第三週、ムスコール大公国、サンクト・ムスコールブルク‐‐


 鉄道が満載の石炭と石油を運ぶ。既に冬の色に染まった真っ白な線路の上を、連なる車輪が雪を巻き上げながら進んでいく。市壁の落し門が持ち上がり、蒸気を上げる機関車が汽笛を鳴らして駅に停車する。


 ムスコールブルクは平和そのものであった。宣戦布告の際にも、最新式の兵器をぎらつかせて、件の平和兵器を見せつければ簡単に帝国は降伏するとの説明がなされたためである。宰相シリヴェストールは市壁の高い位置で停車する蒸気機関車を、曇る窓を拭いて見つめた。


 本当にヴィルヘルムの言う通りに、うまくいってしまった。宰相の名声はうなぎ上りである。今や彼へ対する非難は一つもなく、公国民は彼を英雄と祭り上げたのである。


 ただし、彼自身の胸中だけが、その流れに沿うことが出来ないでいた。

 町に貨物を運ぶ機関車の荷物を、青年たちが下ろしている。かつてコボルト奴隷がしていた仕事である。彼らが下ろした貨物は町の至る所に届けられ、厳しい冬の貯えとなる。プロアニアから齎された技術が、暖房器具となって彼らに幸せを運ぶのだ。


シリヴェストールはエストーラからの贈り物である大公の肖像画の前に立つ。凛とした顔立ちで、立派なひげを蓄えた古い肖像画である。


「私のことを信用しろと言っても、きっと聞いては貰えないでしょうが」


 肖像画の瞳がわずかに動く。シリヴェストールの胸がずきりと痛んだ。


「私の『袖の下』を与えた将軍をそちらに送りました。彼らは和平の使節です。我が国と貴方との繋がりを、将軍は提示しますから、もし信用して頂けるのならば、どうか国境を通してください。そして、プロアニア戦線を何としても持ちこたえて下さい。きっと私が、貴国を守ってみせますので」


 シリヴェストールは肖像画の瞳が動くのを見つめ、小さく微笑む。貨物列車から、大量の機関銃が運び出されていく。


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