‐‐●1896年夏の第二月第三週、エストーラ、ブリュージュ近郊4‐‐
その衝撃にもかかわらず、プロアニア人の死傷者は僅か320名であった。その大多数が第九歩兵小隊であり、ブリュージュの宮殿の前か、倒壊した市壁によって圧殺された者も僅かにあった。
こうした犠牲者の処理をする兵士達は、戦友の顔色を窺っては身震いをするが、すぐに表情を戻してしまう。ブリュージュの市民たちには、その無表情があまりにも残酷に見えた。
倒壊した市壁の出口には高射砲が控え、配備されたトレビュシットの前へプロアニア兵たちが大砲を運んでいる。古典的な兵器を観覧する兵士たちの中には、木造兵器の構造の単純さに、却って関心を抱くものもあった。彼らは武器を運びながら、こうした物珍しい装置についての雑談に花を咲かせていた。
この新たな市門から真っすぐに進んだ場所には、六角形の鐘楼と広場がある。宮殿の前にある穴だらけの道を、武装したプロアニア兵が闊歩している。そして、家屋から呼び出された市民たちもここに集められ、兵士が守る荷車の前で、荷物を抱えていた。皆おびえた表情で小銃の先を見つめており、プロアニア兵が雑談をしながら前を通り過ぎるだけで、強張った体で頭を守るのである。
ブリュージュの人々は、プロアニア兵の前で整列させられた後、食料や宝飾品などを彼らに差し出す。すぐに荷車は一杯になり、新たな荷車が続々と市門を潜ってくる。首に轡付きのリングを装着された魔術師や伯爵夫人は、宮殿の一室に集められ、ブリュージュの貯えがプロアニアへと送られていく姿をただ眺めていた。
「ご婦人。プロアニアの人々は飢えている。少しの犠牲でご協力いただけたことは、私たちにとってとてもありがたい事なのです」
第二歩兵連隊の隊長が、マリーの背後で言う。マリーは拘束具を振り下ろして鳴らし、返答の代わりとした。
「気の毒なご婦人。我々の敵は貴女ではありません。プロアニアは、エストーラの皇帝やカペルの国王が私腹を肥やしている事が我慢できないのです。ですから、ご婦人にならばご理解いただけると、信じています」
個室には、無機質な鉄のにおいが充満している。軍服にこびりついたかすかなヤニのにおいや、咳き込みそうな煤のにおいが、プロアニア兵から強烈に漂ってくる。マリーはこの場所を守ることができない自分の不甲斐なさに震えた。
嗅いだことのないような不快なにおいが、薔薇やラベンダーやリラの香水よりも強く濃く漂ううちに、自然と自分の領域が脅かされていくのを感じる。マリーは静かに目を伏せる。瞬きと共に、一筋の雫が零れ落ちた。
遂にブリュージュの富をすべて回収したプロアニア兵たちは、小銃を肩に掛け直し、荷車を引いたり、荷馬車に飛び乗って去っていく。第二歩兵連隊の隊長は、その一部始終を見届けた後、マリーの手の拘束を解いた。
「私は、近郊の小麦畑の収穫を見届けなければなりません。兵士たちは残していきますが、ご婦人がご婦人らしい生活をすることを妨害させることは致しません。ただ、安全のためにこの轡だけは、解くことができないことを、どうかご容赦下さい」
マリーの瞳孔が縮む。この男は、ブリュージュの平民たちの命綱さえ奪おうとするのだ。彼女は拘束具の跡がついた手首で、男の腹を我武者羅に叩いた。柔らかい白い肌が、浅黒くなった分厚い肌の上を叩く。隊長はこれを少しの間受け入れたが、静かに帽子を被り直し、小銃の間を歩いていく。
魔術師達が咽び泣き始める。部屋の中を湿った空気が漂い始めた。
彼らの轡越しの非難の声は言葉にはならなかったが、誰が見ても明らかなほどであった。無表情の兵士たちが、轡越しの呪文に銃口を突き付ける。数名の腹には弾丸が撃ち込まれ、うめき声を最後に部屋に静寂が戻った。
マリーは静かに立ち上がり、隊長の背中へ向けて突進する。即座に身をかわした隊長は、そのまま転んだマリーの顔を覗き込んだ。
隊長の貼り付けたような無表情がマリーを見つめる。深い闇の底のような暗い瞳が、マリーの心を貫いた。沸々と湧き上がる怒りさえも、自らの矮小さに勝ることはない。体を震わせるマリーを真っすぐに見つめる空虚な瞳は、やがてゆっくりとした仕草で持ち上がり、部屋を後にした。