‐‐●◯1903年、秋の第一月第三週、カペル王国、王宮‐‐
ペアリスに終末の鐘が鳴り響く。筆を執り、綴り続けた歴史が一つ終わる。国王代書人リュカは、最後の大仕事を終えて、玉座から立ち上がり、見つめ合う二人の夫婦を見守っていた。
遠く鳴り響く警鐘に、誇りを守るために残った市民たちや、来るべき時のために準備を整えていた貴族達が動き出す。都市一丸となって敵の攻勢を迎え撃つ、勇ましい行進の音が警鐘を打ち消した。
「アリエル」
「えぇ」
宮殿には二人分の声しか響かない。誰もが都市の防衛のために出払っており、それらの声は二人だけの広い世界に反響した。
遍く照らすシャンデリアの蝋燭が、高い天井にぶら下がる。それを支える支柱は彼らだけの世界を支え、天にさざめく神々の絵画が、その世界を包み込んでいる。その世界を邪魔しないようにと、リュカは柱の隅に身を隠した。
「イローナは無事だろうか」
「貴方そればっかり」
アンリはいつものように笑い、アリエルはやはりいつものように呆れ顔で答える。世界の外側で怒号と祈りの声が響き、不気味な地鳴りが起こる。アンリはアリエノールの右手を取り、アリエノールはその手を左の手で包む。絶え間ない呼吸の音が世界に満ちていく。胸がつまるのを感じながら、リュカは静かに顔を下ろした。
「私は勉強が駄目だから、いつも君に助けられたね」
「自分を抑え込みそうなときに、私を支えてくれたのは貴方だけ」
地鳴りの音が近づいていく。城が縦に揺れ、リュカは思わず屈みこんだ。
「いつかに言っていたよね。愛は作っていくものだって」
「そんなこと言ったっけ?」
アンリはとぼけて見せる。アリエノールは「もう」とため息を零した。
玉座の床が裂け、天井へ向けて破片がはじけ飛ぶ。地面の中から現れた無数の木の幹が、アンリの四方を包み込んだ。
「また、次に会っても、夫婦が良いね」
「……うん」
木の幹が枝を伸ばし、アンリの周囲で連結する。枝は彼へと覆い被さるように重なり、樹洞のようになった。二人は額を合わせ、手を絡ませる。浅い呼吸の温い温度が、互いの肌を撫でた。
「あなたが夫で良かった」
巨大な樹木が折り重なり、アンリを包んでしまう。樹木はそのまま急速な成長を続け、絡まり合った樹木が一つの大樹となり、天井を貫いた。
神々の世界を貫き、天高く緑の両翼を広げた大樹は、枝と根を伸ばし、周囲に爆発音をまき散らす。
天に向けて幹を伸ばす恵みの木は、王家に伝わる秘術である。カペル朝の時代から、強力な魔術師であった王が柱となり、ペアリスを守る最後の盾となると伝えられている。恵みの大樹は絡みつく蔓からアイリスの花を咲かせ、眷属を地上に実らせながら、無限に成長を続けるという。
ペアリスという都市自体が、この大いなる秘術の法陣を形成している。高度な都市計画によって作り上げられた魔術的な地上絵は、聖典の言葉を含んだ文字を記した紙を大通りに配置することによって、意味のある複雑な数式と神聖文字の羅列と成る。
ここに玉座の王が最後の柱となることによって、地の底に眠る世界樹は萌え、地上に枝葉を伸ばして敵を貫く。
その代わりに、王は樹となり、魔術の才も肉体の養分も全てを樹木に搾り取られ命を落とす。
デフィネル家はカペル朝の王家と比べて格下の魔術師である。実った世界樹が十分な魔術を持たない不完全なものとなることは明白であった。
「もしも、この樹が斃れれば、力による支配が終わる」
リュカは呟く。天を圧する城を貫く、「家族の樹」が盛るのを見つめた。歴史の終わりを見届けるために、彼は胸元から紙を取り出す。栄えある王国に仕えてきた吟遊詩人がそうしたように、彼はペンを指で回し、インク壺に浸して踊らせる。
困惑して何度も断続的に鳴る警鐘と何かの鉄片が付近に落下する音が、遠くから聞こえる。沈黙する宮殿に、リュカの悲しい歌がこだまする。それは低く、酷く下手くそで、音律の乱れた代物であった。
アリエノールは大樹に身を預け、開いた天井から空を眺める。秋の青い空の下を、鱗雲の群れが流れていく。
シャンデリアよりもなお明るい、太陽の光が、天使の梯子となって彼女に降り注いだ。
嗚呼悲しむべきかな それは、王と都の物語
アイリスの花が咲き撓る 歴史の果ての世界樹よ
かくも雄々しく勇ましく かくも儚く美しい
私は終わる歴史を偲ぶ者 枯れゆく家族の樹を偲ぶもの
例え歴史が終わろうとも 私は歌い伝えよう
さざめくアイリスの花の都と それを守った英雄を