‐‐●◯1903年、秋の第一月第三週、カペル王国、ペアリス1‐‐
その日はゲンテンブルクで見られるような曇天であった。
ヨシュアのイコンは天に輝かず、物憂げな分厚い雲が空を覆いつくしている。ペアリスの王宮には、王都にいる限りの男子たちが集まり、王の御座を備えたバルコニーを見上げていた。
湿った風が吹き荒ぶ。肌を撫でて行き過ぎていく儚い霊魂に、兵士達は振り返った。
やがて、バルコニーには王と王妃が並び、その周りに武装した家臣たちと近衛兵が集う。曇天を吹き飛ばすほどの大きな喝采が、宮殿の庭園から湧き上がった。
王は強面の表情を僅かに綻ばせ、勇士たちに手を振って応える。毅然とした態度で傍に控える女は、誰が見ても男装をしていたが、聖職者もその場では何も言わなかった。
喝采が止むと、王は厳かな仕草でこめかみを抑え、そして東の地平線を睨みつけた。視線の先では、地の底から響くような、雷鳴が空を切り裂く。
「この場に残った全ての民とその家族は、魂が救われることをここに宣言する。私達は強大な悪を前にしても怯まず、勇気と覚悟を持って戦い抜くと誓ったのだから。そして、その魂が今もこの地の多くの者に宿っていることを、私は誇りに思う。何故なら、我々は花の女神カペラの祝福へ対するその御恩を、一時も忘れずに受け継いできたと分かったからだ」
神を慕う敬虔な僧兵達が、天を仰ぎ、祈りを捧げる。彼らは暗い雲の切れ間に、小さな光の筋が現れることを信じていた。
王は続けて、拳を握りしめ、肩の高さに掲げた。
「そしてこの場に集った勇士たち。君たちに私個人から感謝を伝えたいと思う。君たちには家族と共に逃れ、幸福に生きる権利もあったはずだ。それでも君たちは、この国を最後まで守ろうと、足掻こうと決意をしてくれた。その奉公に報いるために、私からは渾身のものを授けたいと思う」
王は握った拳を天に振り上げた。その時、兵士達は自分の体にみるみる力が満ちてくるのを感じた。彼らの内側から溢れ出る力は、彼らを勇気づけ、昂らせた。気づけば、全ての兵士が王と同じように拳を掲げていた。
王はその強面で東を睨む。垂れ込める暗雲が拳に突き動かされるように王の頭上を退き、射しこんだ光明が彼の隆々とした筋肉を際立たせた。勇ましく鎧が輝き、アイリスのマントが強風に煽られて靡いた。
「たとえ世に花冠が喪失しようと、カペル王国の名は永遠である。世界は混迷を極め、邪悪な鉄塊の群れが葡萄畑を蹂躙している。もし仮に、この者達に何らの裁きも下らぬとすれば、カペラは天涯の孤独に嘆くことだろう。祖国を繁栄に導いたこの女神に応える為に、朕は誉れ高く死ぬことを選んだ。無機質で野蛮な悪魔たちを滅ぼす騎士となり、審問官となる事を選んだ」
天は光のすべてを彼に集めているかのようであった。神々しいほどの白い光が、分厚い雲の縁を照らして彼を祝福する。その光景に、様々な武装をした人々‐‐松明用の木材を削った棍棒から、エストーラ人が持つようなマスケット銃まで‐‐が大きな喊声を上げる。意味にならない掛け声は、天を貫き、城壁を昇り、森の彼方まで響き渡った。
人々はそれぞれの武器に合わせて持ち場へと駆けていく。先発は安い武器を持った乞食たちである。松明を削った棍棒や、石や、道端の汚物などを手に、市壁の外へと向かう。関所の兵士が指示を出す通りに、拒馬を押し出し、市壁の前にずらりと並べた。
次には職人たちが続く。金槌やスコップ、包丁を背負い、護身用のナイフや弓矢を持って、市壁にかかった梯子を上る。石工職人はありったけの石材を殺人孔に運び込み、木造技師は釘を市門に撒く。
そして金を持つ商人が、ありったけの財産で彼らの武器を仕入れる。納品された投石器や大弓車などの古い攻城兵器が市壁の裏を囲み、あるいは市門の内側に控える。油売り商人は樽一杯の植物油を市壁まで転がし、商会の会長たちは燧発式や雷管式の銃剣を抱えて、大量のカノン砲と野戦砲を従える。自身は市壁の内側に控えたまま、関所を潜る砲手たちに祈りの仕草を送った。
商人たちの後ろに続くのは聖職者たちである。教会の尖塔のような鋭い先端を持つ錫杖を振るい、片手には聖水、腰には薬壺を結わえる。聖水はハーブや薬草を植物油で馴染ませて成分を抽出したもので、澄んだ緑色をしている。彼らは武器のほかに蒸留酒を詰めた樽を解放し、戦士たちに一さじずつ配って回る。これを受け取った戦士たちのこめかみを自ら押さえ、『聖戦』による魂の救済を祈る。戦士は精悍な顔つきのまま一筋の涙を零し、カペラに向けて祈りを捧げた。
狭い街路を傭兵と、近衛兵らが塞ぐ。大通りには騎士爵の貴族達が集い、乗馬したまま槍や弓、宝剣や錫杖を握っている。騎士たちの背後には邸宅や商家があり、その窓から準男爵以上の貴族や生き残った都市貴族達が睨みを利かせている。彼らは銀の盃や書物や、杖や剣や冠などの、好みの装備を机に乗せ、宝飾品を窓から射す光に向けて時を待つ。一つ一つの呼吸のたびに、彼らの魔術は練り上げられていく。
そして、宮殿に座する国王は、玉座に腰を下ろしたまま、代書人リュカに指示を出し、最後の仕上げに取り掛からせていた。
彼にはありったけの秘術を記された王の魔導書の中から、法陣術を書かせている。王の代わりに魔導書を読み上げるのは、王妃アリエノールの仕事である。粛々と法陣の精巧な転写物が並べられる。それらの転写物を、伝令兵達が市内のいずれかへと次々に運んでいく。町中にばら撒かれた法陣は、玉座の王の示す通りに設置された。
やがて空の暗雲が途切れると、実りを祝福する白い鱗雲が訪れる。
神々が空をあるべき色に染めた時、市壁の上から、けたたましい警鐘の音が打ち鳴らされた。