‐‐●◯1903年秋の第一月第二週、カペル王国、ペアリス2‐‐
「……よし」
空は快晴で、陽気な太陽が町を照らしている。庭園の花はキラキラと輝き、果実が自慢げに枝をたわませている。鮮やかな植物の園を、鎧で武装した魔術師や騎士たちが歩いていく。
最低限の荷物を纏めた頭陀袋には、水、食料、薬や着替え、硬貨のほかに、数束分の便箋を忍ばせてある。これで何かあった時に、誰かに頼れることもあるかもしれない。考えたくはないが、ペアリスが陥落し、その際にアンリ陛下が斃れて、王国全土が支配された時に、可能な限り体制の整っていない中で、助けを求められる準備はしておきたい。その前に、自分が生き残っているかどうか、という疑問はあるけれど、それこそ考えないようにしなければ心が持たない。
「荷造りはお済みですか?フェルディナンド殿下」
「フランツ閣下。もう出発できます。よろしくお願いいたします」
僕が頭を下げると、彼は首を横に振るった。
「私にできることなど知れていますが、何とかお二人をアーカテニアへお導きできるように善処させていただきます」
彼は、以前逃げ延びた時のように見すぼらしい農民服を着こんでいる。冬用の外套の裏に木製の棍棒のような錫杖とナイフだけを隠し、傍から見ても農民にしか見えないように擬態している。
僕が荷物を持ち上げようとすると、フランツはそれを持ち上げ、片手にぶら下げる。互いに感謝の言葉を述べあい、城外へ向けて歩き出した。
「本当に変装がお上手ですね、ちょっとびっくりしました」
秋の鱗雲を背景にした横顔は、僅かに日焼けしているように見える。彼の生活で日焼けなどしようはずもないから、間違いなく数週間かけて準備を進めていたのだとわかる。フランツ閣下は肩をすくませて苦笑を返した。
「体系が典型的な中年だというのも、手伝っていると思いますよ」
彼はそう言って、頭陀袋を持ち替える。窓の向こうから射す日光を受けた彼の小麦色の肌を見て、自分は今から農村の集会場に向かうのではないかという錯覚に見舞われた。
宮殿に似つかわしくないフランツの姿を、まだ残っている家臣たちがぎょっとして見つめる。彼は自嘲気味な含み笑いをして、足元の赤絨毯を見下ろした。
「それだけ私にはお似合いの服だということですね……」
「いいじゃないですか。健康的で優しい農夫というのも、愛嬌があると思いますよ」
フランツは僅かに口角を持ち上げてみせる。豪華な調度品が並び、宗教画や肖像画が目でこちらを追いかけてくる廊下を、早歩きで進んでいく。
庭園へと出ると、色とりどりの秋の花が、風に揺れて出迎えてくれた。秋桜がその首をこちらに向けて咲き乱れている。アーカテニアでは、宮殿だけでなく市街地の花壇の彼方此方で、これを見ることが出来るらしい。
茶色い一頭立ての荷馬車の前で、イローナが一足先に待っている。侍女二人に荷物を持たせているが、皮の鞄の中からは自分の描いた線描が溢れるほど詰め込まれている。
僕はイローナに手を振り、馬車へと踏み出した。
フランツが視界の横から消え、思わず振り返る。秋の不穏な風に、農夫の汚れた服が揺れている。
「私がこうして、お二人のお目付け役となったのは、戦場で役に立たぬからです。殿下、貴方はそれでも、私を信用できるのですか?」
彼は唇を噛んで小刻みに震えていた。僕と彼との間に、冷えた風が吹き込む。僕は丸まった彼の背中を、とん、と優しく叩いた。
「義父がそう思ったとしても、僕は貴方を信頼しています。ブリュージュからの長い道のりを、貴方は身一つで逃げ延びたのですから」
彼はこうした仕事に適任だと、僕は本当にそう思う。命を賭けずに生き残る術を、きっと彼はたくさん持っているのだ。
秋桜の花がしなる。黄色い筒状花に一羽の虫が止まった。
有象無象の花に馴染んだ虫の鱗粉は、羽を揺するたびに輝き、寄る辺もない身を守っている。
「行きましょうか」
「よろしくお導き下さい」
フランツは大きく頷いて歩き出す。赤みがかった目を、真っすぐに馬車に向けながら。