‐‐◯1903年、秋の第一月第一週、プロアニア、ゲンテンブルク2‐‐
シリヴェストールは入城するなり、公開会議室へと案内された。そこにはシルクのテーブルクロスがかかった長い机があり、天井からはオレンジ色の光が降り注ぐ。安堵を誘うような優しいオレンジ色の中に、彼自身の影が沈んでいる。彼は何気なく壁面を眺める。以前には飾られていた記憶のある、古い時代の絵画が見当たらない。代わりに黄金の額縁の中では、花瓶に挿された花がかわいらしく彼の方を向いていた。
彼は落ち着きなく辺りを見回す。王の控え目な玉座、白いテーブルクロス、コルクのコースター。金縁の中に物語を描いた壁画や、花の挿された花瓶の絵画、木製の肘掛け椅子、レースのカーテン。小奇麗に纏まった室内には、不気味な閉塞感が漂う。
「大変お待たせいたしました、シリヴェストール閣下。陛下の御成りです」
客人を迎えるために長い燕尾が特徴の黒い民族衣装を身に纏ったアムンゼンが入室する。彼はシリヴェストールと短い握手を交わすと、そのまま彼の向かいの席に掛け直した。
二人が揃うと、近衛兵が厳かに扉を開く。赤い瞳を爛爛と輝かせたヴィルヘルムが、シリヴェストールに向けて会釈をする。彼も立ち上がり、ヴィルヘルムへと近づいた。
王は強者の余裕に満ちた、満面の笑みを浮かべている。
「お招きいただき光栄に存じます、陛下」
「こちらこそ、温かいお手紙有難うございます。いつも励みになっております」
和やかな雰囲気で交わした握手の力は強い。彼は突然牙を剥かれなかったことに、先ずは安堵した。
二人が座りなおすと、アムンゼンが資料を広げ、ヴィルヘルムがシリヴェストールから受け取った手紙を開く。二人の動きに合わせて、シリヴェストールも印鑑と万年筆を取り出した。
「最近はいかがお過ごしですか、陛下。我が国は国民の努力の賜物がようやく芽生えてきたところです」
当たり障りのない挨拶に対して、ヴィルヘルムは眉尻を下げた。
「カペル王国との攻防のため、若者の割合が激減しております。今は在地の人々が全霊で彼らの穴埋めを行って、経済を回しているところです」
「それは大変だ……。我が国としても、貴国の平穏は技術開発に必要不可欠な要素です。早期の終戦を願ってやみません」
両者は静かに頷く。アムンゼンは沈黙を保ったまま会話に耳を傾け、シリヴェストールに意見書を回すように使用人に声をかけた。
「失礼いたします」
シリヴェストールも使用人から手渡された意見書を眺める。戦争そのものは優勢であることや、カペル王国が再三に渡る終戦の申し出に断り続けていること、それに対してル・シャズーの領主と和議が成立したことなどが記されており、最後に「貴国からの温かい支援を所望いたします」と記されて結ばれていた。
「意見書の通り、ル・シャズーのレノー・ディ・ウァロー様との和議が成立したことは、我々にとって一筋の光でございました」
「アンリ陛下には何とか退位して頂き、レノー閣下との和議を正式なカペル王国との講和としたいと考えておりますが、いやはや、なかなか聞き入れてもらえず」
(王の退位と領土の割譲を要求して、和平の兆しなど見えるはずもないだろう……)
ヴィルヘルムはわざとらしく首を振る。シリヴェストールは直感的に、ヴィルヘルムに王国との講和の意志がないことを感じ取った。
ヴィルヘルムの赤い瞳が弧を描く。彼もそれに合わせて微笑みを返した。
「やはり早期の終戦には、もう一押し力が足りない、と言ったところでしょうか」
「戦力としては拮抗していると言って良いでしょう。我が国も疲弊し、無用な犠牲は求めていないのですが」
(白々しい男だ……)
彼は笑顔を貼り付けたまま、意見書の署名欄にペンを下ろした。
「ならば我々のご提案も、少しはお役に立てることでしょう」
ヴィルヘルムは静かに頷く。シリヴェストールの手元に朱肉が届けられる。彼は重い松の箱を取り出し、中から印鑑を取り出した。ムスコール大公の物であることを示す、複雑な幾何学模様で象られた印鑑である。中央には『ムスコール大公の承認による』という文言が記されている。彼は印鑑の持ち手を両手で掴み、大きな朱肉の中に印鑑を押し付ける。そして、意見書の署名欄の右隣に捺印をした。
意見書はそれと同じ紙を使用した批准書と共に、ヴィルヘルムの手に渡される。ヴィルヘルムは批准書の内容を確認すると、シリヴェストールに視線を向ける。その目は弧を描き、口元は歪に歪んでいた。
「素晴らしいご決断だ。ですがよく、彼らを宥めましたね」
「一度踏み外して沼に落ちれば、あとは沈んでいくばかりですよ」
ヴィルヘルムがクックと笑う。彼は使用人からペンを受け取ると、迷いなく批准書にサインをした。アムンゼンは静かにその様子を見届ける。
短い静寂の後、ヴィルヘルムはテーブルにペンを置いた。
「神が我々をお守りくださるように」
「昨今は、私もオーロラを見ていないのですよ」
シリヴェストールは静かに天井を仰いだ。故郷の街路を照らすのと同じ色の灯りは、どこか物悲しそうに、彼を見下ろしていた。