‐‐1903年、夏の第三月第一週、カペル王国、ブローナ2‐‐
八角階段の最上部からは、ブローナの中腹を流れる長大な河川を見下ろすことが出来る。ヴィルジールは指で手摺を叩き、この美しい夜景を見下ろしていた。
(この美しい夜景も直ぐに廃墟に変わってしまうだろう!何と嘆かわしいことか!)
彼は歯軋りをし、思い切り顔を顰める。
清流はさらさらと流れ、町を賑わせた商船団もない。数多の名門貴族が愛した賑わいもとうに忘れ去られている。
点々と燃え上がるカンテラの灯りが、街路を練り歩いているのが見えた。とりわけ多いのが河川と並走する大通りであり、観光客が城廻りを目当てにこの道を通行したり、運河を遊覧したりする。
河川沿いの大通りにはその他にも歴史的な建物や著名な店舗が軒を連ねており、栄華を誇った都市貴族の残してきた傑作建造物を楽しむことが出来る。
カペル王国の建築文化を代表する歴史都市でもあるブローナが損なわれるのはあまりにも惜しい。今の美しい形を後代に残したまま、カペル王国滅亡後もブローナの権勢を保つこと、それがどれほど価値のあることだろうか。凡百の市民のことなど彼にとっては至極どうでもいいことであったが、自分の住まうこの都市を後代に受け継ぐことは彼にとっても最重要事項であった。
河川に隣接する都市特有の、残暑の蒸し暑さによって、彼の背中に衣服が纏わりつく。夏の暮れを惜しむセミの鳴き声が共有地の森林から聞こえる。川面のせせらぎの中に輝く月光が、彼らを見定めるように八角階段にも降り注いでくる。
ヴィルジール自身も認めるように、彼はあまりにも保守的な人間である。彼は、王権は本来カペル王家が継ぐべきであると、断絶した今でも信じている。
デフィネル家は血縁こそ近いと彼は認めているが、魔術師としては格上のウァロー家の方がよりカペル王家に近しいように思える。まして、当代の王はヴィルジールよりも格下の、訳の分からない田舎貴族と婚姻している。その跡取りがいないのは、どうせ罰が当たったのだろうとさえ信じていた。
そのような男であったが、或いはそのような男だからこそ、故郷ブローナの芸術的な都市景観は当代の王の権威などよりずっと重要であった。
だから、レノーがプロアニア側についたと知った時に、彼もレノーに追従しようと思ったのは奇妙なことではなかったし、元より親ウァロー派の彼にはそう行動する理由もあった。
そして彼には、プロアニアに下ることが、ブローナという都市を守るための唯一の方法に思えた。実際、ル・シャズーが破壊されたという形跡は、カペル王国内には全く伝わってこなかった。
しかし、今は敵の手に落ちたル・シャズーに手紙を渡すことも出来ない。レノーが彼のことを見限り、手を差し伸べてくれずに、しかもプロアニア統治下でブローナの市民が安寧に過ごす道は、この会議のせいで閉ざされてしまった。刻々と迫る破壊の予兆に、彼は背筋が凍りついた。
彼の怒りの矛先は、抵抗を続けることに決めた国王アンリに向かう。彼は八角階段の手すりを激しく叩き、歯を食いしばって水月を睨みつけた。
「嗚呼!あのクソッタレの鼻たれ坊主がっ!あれが少しでも王冠の重みを知っていれば!」
街路を巡回する警備兵たちのカンテラが方向転換をする。対岸には直角に方向転換をする兵士がおり、こちらにはゆったりと大回りをして方向転換する兵士がいる。彼らは互いの持ち分をわきまえており、互いに連絡を取り合うでもなく、歩幅を合わせてすれ違っていく。ヴィルジールはそこにかつてあった巨大な橋を思い出し、手摺に肘をついて咽び泣き始めた。
月は攻めるように彼を見下ろしている。その目は、彼の目下にある河川にもあった。水月が揺らぐたびに、彼はそこにかかっていた橋を懐かしむ。それさえあれば月は川面に映らずに、彼は視線を顧みる必要もない。気休め程度のものであったが、今の彼には気休めでさえ恋しかった。彼は八角階段の下に雫を零しながら、もう叶わない希望を思った。
「どうせ失われるのだ。構うものか。私は明日逃げて、レノー閣下に向けて額をつくのだ。そうすれば許してもらえる。付き合いもあるのだから、許してもらえる……」
ヴィルジールは背後に気配を感じて振り返る。そこには誰もおらず、ただセミの鳴き声が響くだけであった。
「ついに私も頭がおかしくなったのだ……」
彼はそう言って、再び手摺に顎を乗せて泣き始めた。