‐‐1903年、夏の第三月第一週、カペル王国、ブローナ‐‐
揺れる水面の上に船の影はない。東からくる交易路も、今は息詰まる兵士達の集会所である。
プロアニア兵が何よりも尊重する田畑の実りも収穫を終え、それらを全て首都へと避難させる西側の市門だけが、忙しなく馬車の往来を受け容れていた。
軍資金の徴収のために、ブローナに居を構える貴族たちはこれらの食料を盛んに徴収するように合議をし、食料は三割程度この都市に残されることになる。これは、多くの住民を抱える大都市ブローナでは、全く不足していると言わざるを得ない窮状であった。
また、亡きブローナ城主のマルタン・ディ・ケルナーの空席を埋めるために、かつて川を挟んでいがみ合っていた貴族達が額を合わせて同じ議席についた。
会場は、領主を失くした最も対等な城、ブローナ城である。川を一望できる八角階段を登る各領主たちは、いつもの浮ついた見栄の張り合いをやめて、粛々と階段を登っていく。白地に黒い尻尾が揺れるアーミンの縁取りをした、極彩色のマントを引き摺りながら、皮のブーツが石段を踏みしめる。時折視線を八角階段の外に寄せて、空っぽの河川を見下ろす者がある。その者は暫く眉間に深いしわを寄せて佇んでいたが、やがて小さな溜息を零して顔を上げた。
八角階段からぞろぞろと進む貴族の行列は、いかにも厳格であり、祝祭日の儀式にも似ている。
階段を登る貴族たちの中には、外務卿であるヴィルジール・ディ・リオンヌの姿もあった。
不機嫌な様子のヴィルジールは、前方の貴族のマントを踏みつけながら階段を登る。息苦しそうに顔を顰めた貴族が彼の方を向いても、彼は物憂げに前方を見つめるだけである。王国髄一の権力者であるヴィルジールに苦言を呈するのも憚られ、被害者は改めて前進をする。そのたびに、彼はマントの裾を引っ張られた。
宴会場にブローナの貴族が集う。アンリ王の本家である、ドゥー・ドーフィネ城はデフィネル家の大紋章、川向かいにある邸宅を有するリオンヌ家の大紋章、王家との結婚を機にチェンチュルー城に城主として招かれた、フランソウス家の大紋章、そして、当主の席が空席となった、ブローナ城はケルナー家の大紋章が、座席の上に飾られる。
円卓の席を囲む高名な貴族達は、当たり障りのない挨拶を交わし合う。互いに貼り付けた笑顔で、他愛のない会話を済ませると、ほかの円卓を囲んだ末席の貴族達を蛇のように睨んだ。
(今回の議題は、いかに主戦場を我が邸宅から逸らすかである)
ヴィルジールを含む権力者の一行は、各々が従える部下たちに、視線だけでそれぞれの思惑を伝えた。
ヴィルジールの実質的な上長であったレノーが敵にル・シャズーを解放した以上、彼の役割はいち早くカペル王国の降伏を勝ち取ることである。
その場にはないはずのレノーの視線が、彼にはあちこちにあるように錯覚された。その正体は宴会場を囲うように飾られた、歴代城主の肖像画かも知れなかった。これらの贈り物はエストーラ皇帝が寄越した宮廷画家が描いたものである。肖像画と視線が合うたびに、気味の悪い緊張感がヴィルジールに襲い掛かった。
それぞれの座席にグラスが配膳され、ワインを注がれる。普段であればその色でメニューを想像する楽しみもあったが、ヴィルジールは気に留める余裕もなく、列席者に合わせて反射的にグラスを持ち上げた。
乾杯の音頭も取らず、各円卓でグラスがぶつかり合う。高い音と共に小さくくぐもった『乾杯』の声が交わされた。
「既にブローナの周辺にはプロアニア兵がいるとの報告も受けております。これ以上の抵抗は不毛ではないでしょうか?」
ヴィルジールは先んじて『レノーの意見』を告げる。帝国の最高権力者たちの険しい視線が、彼に突き刺さった。
「そうは言ってもブローナは、彼らの侵攻を押し返すのにはヴィロング要塞以上に都合がよろしいのではないか」
ラ・ピュセーの都市貴族であったチェンチュルー城の城主が答える。彼は配膳されてくる仔牛のステーキに合わせた、赤ワインをグラスに注がせる。一度グラスを軽く傾けると、濃いワインレッドがグラスの上方を向いた。
(ナルボヌの田舎貴族が……!)
「しかし、海軍との合流があるとすればここブローナです。敵の猛攻を果たして耐えられるかどうか……」
王に似ていない、ドーフィネ城の城代がすかさず反応する。若いが後退した額が、一層に悲壮感を漂わせる。
思わぬ援軍に、ヴィルジールの心は安堵した。ワインの香りを楽しんだチェンチュルー城主は一度鼻からグラスを外して手を振る。彼は権力者特有の、圧迫感のある笑みを零した。
「そんなことでどうするのです。何故我々が陸路の防衛に専念したと思っておられるのか」
「なぜぇ……ですか?」
王の代理には相応しくない禿げ頭が、チェンチュルー城の城主に恐る恐る上目遣いを送る。チェンチュルー城主は小指を立て、ワイングラスを持ち上げて笑顔を零した。
「プロアニアの最も強力なのは陸軍でしょう。ですから、市壁の周りをきっちり固めるとすれば、陸路の方です」
彼は一旦言葉を区切り、ワイングラスを傾けた。王代理もヴィルジールも、固唾を飲んで言葉を待つ。
「……と、相手の大将はそう考えるでしょう。そして案の定、我々は兵士を陸路の関所に集中させ、強固な守りを固めている。すると、彼らはどこからやって来るでしょうか?」
「……河川からでしょうかね」
「つまり、敵は河川から主戦力を導入すると考えるのが自然であり、何よりそれが最も迅速でありましょう。ですが、ブローナには我々貴族が、つまり魔術師達が固まっている。その居城は多くが河川に集中しているのです」
チェンチュルー城主はグラスを反時計回りに軽く回し、再びグラスを鼻に近づけた。彼は会食をいつも通りに楽しむつもりで、満足げに息を零す。その余裕綽々とした様が、ヴィルジールを益々苛立たせた。
「だから、なんだというのです?我々に死ねというのですか!?」
「えぇ!?ひ、酷いですよ!」
王代理は顔を真っ青にして震え上がる。ドゥー・ドーフィネ城もリオンヌ邸も、ケルナー城も河川を囲んでいた。
「そんなに言うなら先鋒は我々フランソウス家が引き受けましょうか?私が発案者なのですから、謹んでお受けいたしますよ」
「で、ですが失敗したらどうするのですか?もし本当に、丘から大軍勢が迫ってくれば、魔術師の少ない市壁の守りは簡単に崩壊するでしょう?」
ヴィルジールの反論は的を射ていた。どちらにせよ主戦場は市内になるが、河川からの攻めに魔術師の比重を傾けることは、より各城主に死の危険を負わせることになる。本当に敵が大軍勢を陸路に寄越せば、町の半分を敵に圧力もかけられずに確実に占領されたうえで、対岸からの激しい攻防戦となるに違いない。そうなれば、市街地の被害は甚大にならざるを得ない。水門も陸路も、水際できっちりと堰き止めた方が安全と言える。
都市貴族達の円卓、下々の円卓でも、プロアニアの攻勢は陸路から来るというのが殆どの意見である。海軍が川を上って来るのはブローナの川を渡るために絶対に必要であるし、彼らの本軍が河川から攻め込んでくることを証明する理由にはならない。
「どちらにしても河川を通るのですから、我々の一部が川を守る必要は大いにありますよ?ヴィルジール様は戦争をやめたいとお考えのようですが、いずれにしても有利な条件で終えるべきではないでしょうか?」
(それでは私は困るのだ!)
ヴィルジールは額縁の絵画が視線を動かしたように感じた。優雅にワインを仰ぐチェンチュルー城の城主は、グラスを王代理の側に向けた。
「……あなたは陛下の代理と聞きましたが、城代の務めを果たす気は無いようですね?主人の意に添わぬ側に着くというのですから」
「えっと、そのぉ……」
王代理はもじもじと貧乏ゆすりを始めてしまう。元々不利な議題で僅かに見えた救いの兆しが、彼の手から滑り落ちようとしている。
彼もワインを一口飲み、王代理にグラスを傾けた。
「ブローナでの無用な抵抗は相手の思うつぼです!ここは一つ、穏便に済ませるべきではないでしょうか!!」
(お前に相応の『ポスト』を用意することも出来るんだぞ!)
ヴィルジールは鬼気迫る表情を王代理に向けた。王代理はあわあわと双方を見回す。周囲の円卓は、既に話をまとめ、王代理に注目を集めている。彼はたじろぎ、貧乏ゆすりをして双方のワイングラスに視線を動かした。
ヴィルジールがワイングラス益々近づける。負けじとチェンチュルー城主はグラスを目一杯に傾けた。
王代理は涙目になり、グラスのワインを一気に飲み干す。空になったグラスは、チェンチュルー城主のものとぶつかった。
耐え難いほど長い沈黙が流れる。ヴィルジールは顔を真っ赤にし、ワイングラスを叩きつけるようにテーブルに置くと、肩を怒らせながら宴会場を飛び出していく。
「カペル王国の繁栄に……乾杯」
チェンチュルー城の城主が王代理の耳元で囁く。王代理は絹のテーブルクロスを鷲掴みにし、頬を机上に預けて泣き崩れた。
ブローナの夜は、刻々と過ぎ去っていく。