‐‐●1903年夏の第三月第一週、エストーラ・プロアニア国境、霊峰シュッツモート‐‐
岩肌に掛けたカンテラが、オレンジ色の灯りを放っている。荒削りの壁面は揺らぐ炎に合わせて明滅する。洞窟の内側を塞いだ壁は、僅かに上部から風が通るだけで、ひゅう、という冷たい声が、コボルト達の頭上を通り抜けていく。
古いマスケット銃を暗い天井に向けながら、舌を出して荒い呼吸をする。彼らの乾いた舌に温い風が当たり、僅かな痛みを伴う。
時折洞穴の壁上部から顔を覗かせてみるが、先の見えない暗闇があるばかりで、人の姿もない。幾日も人の往来がない国境のトンネルなどおよそ想像し難かったが、いくらコボルト騎兵達が顔を覗かせても、その風景は殆ど変化がなかった。
「暑いな……」
コボルトは舌を出したまま呟く。壁から顔を引っ込めたコボルトも、マスケット銃の銃身に顔を摺り寄せながら頷いた。
「……もう何日だ?」
「馬鹿言え、もう五年だよ」
二人は顔を見合わせて深い溜息を吐いた。壁際で控えていたコボルトは、トンネルの中を覗いたコボルトに櫛を渡す。彼は受け取った櫛で体の毛づくろいを始めた。
「こんな長い戦い、これまでにあったかよ……。腹減ったな」
ごわごわとした体毛に櫛が入れられると、ノミが数匹飛び出してくる。舌を出したまま「うぇ」と小さな呻き声を零した彼は、尻尾を激しく地面に叩きつけ、ノミを潰した。
もう一方のコボルトは壁の上部に飛び乗り、耳を立ててトンネルの中を見回した。強い山の風が、彼の体毛を撫でて先の見えない洞穴へと吹き込んでいく。
「カペル王国の方は大変みたいだぞ」
「そりゃあ、こっちより食料が多いからな」
尻尾を静かに上下させるたびに、わさわさという摩擦音がトンネルの奥まで響く。見張りのコボルトの耳は水滴の落ちる音までに敏感に反応し、音の方角に向く。
「今なら、もし極秘でトンネルを抜けて北上したら、結構いいところまで行くんじゃないのか?」
「陛下は戦争が下手だからな。まぁ、その後のことを考えると……これだわ」
櫛が通り過ぎた体毛が逆立つ。頭上から小さな苦笑いが零れた。
トンネルの奥からも風の音が届く。それは、人間の耳では聞き分けられないほど遠くの音だが、コボルトのアンテナのように立てた耳にはしっかりと聞き取ることが出来る。皮製の軍靴が地面を蹴る足音も、トンネルの遥か彼方からのものを聞き取ることが出来た。そして、彼らはそうした音を、近年殆ど聞き取ってはいない。
毛繕いをするコボルトの頭上から、相方の体毛が降って来る。彼は鬱陶しそうに頭を払うと、わさわさと揺れる尻尾を見上げて唸った。
「おい、お前ちゃんと毛繕いしてないだろ。毛玉になるぞ?」
「あぁ?別にいいだろ。毛ぐらいで怪我しねーよ」
「こそばゆいんだよ。獣くせーし」
「コボルトだもの」
そう答えると、見張り中のコボルトは尻尾を激しく揺する。櫛を持つコボルトは、はらはらと落ちてくる体毛を、両腕を激しく振るって払いのけた。彼の頭上にある尻尾が激しく揺れ、快活な笑い声がトンネルに響いた。
「おーい、お前ら。楽しそうなのは良いが、ちょっとうるさいぞ」
彼らは耳を立て、毛を逆立てた。一斉に視線を向けた先には、黒い体毛のコボルトが腕を組んで立っている。
「げぇっ!隊長!」
見張り番のコボルト達は湿った鼻先をひくつかせる。フェケッテが近づくにつれて、僅かだったヤニ臭さは次第に強くなっていく。
フェケッテは彼らの前まで来ると、頭を掻きながら続けた。
「人をお化け扱いするな」
「す、すいません!つい……」
二匹のコボルトは身を縮こめ、背中を丸めている。瞳は大きく見開き、鼻先を下ろして上目遣いをしている。
フェケッテは暫く彼らを睨んだが、深い溜息を零し、拳を作って櫛を持つコボルトの頭に軽く当てた。瞬間目を瞑った彼は、恐る恐る目を開く。黒い体毛が彼の鼻先に付きそうなほど近づいている。フェケッテはとろんとした瞳で、見張り番のコボルトと向き合っている。
「なぁ。もし平和になった後で、俺たちが自由になったら、お前らはどうする?」
怯えた様子はそのままで、櫛を持ったコボルトは聞き返した。フェケッテは目を細め、壁に手を当ててさらに顔を近づける。逡巡の後、上目遣いの瞳を目一杯に潤ませて、櫛を持つコボルトは答えた。
「そ、そんなのわかんないっすよ。俺たち、戦争と護衛しかしたことないし」
「……そうか。そうだよな」
フェケッテは壁に突き出した手を下ろし、ポケットに手を突っ込む。取り出した煙草を咥えると、火を点けるでもなく踵を返した。
「な、なんだったんだ……?」
大股で立ち去っていくフェケッテを見送りながら、コボルトは小さく呟いた。
煙草を吹かす。夏であっても、霊山の頂には、冷たい風が吹いていた。
山頂付近の個性的な高山植物は、どれも地面に貼りつくように生えており、奇妙な唇のように分厚い花弁を持つ花を咲かせている。岩肌の上に点々と群生するこれらの高山植物たちは、やがて冬を待つことなく枯れていくことだろう。
風向きに合わせて耳を立てる。甲高い悲鳴のような音色が、微かに聞こえてくる。
石を積み上げただけの墓に、支給品の酒を数滴ずつ垂らす。石に染みついたアルコールは、直ぐに蒸発して朱色だけが広がった。
俺は酒瓶に口をつけ、昼飲みを共にする。じんわりと、喉に熱が浸み込んでいく。
「そりゃあそうだよな。俺にも分かんねぇよ」
酒瓶の首を持ち、ぶら下げながら呟く。雲海が静かに足元を漂い、薄いヴェールを纏った下方に、トンネルが霞んで見える。
コボルト騎兵は戦いのエキスパートである。戦いのための教育を授けられ、戦いの事だけを考えてきたからこそ、皇帝陛下の懐刀として、強い畏敬の念を授かってきた。
だから、俺たちもその他の仕事について、そもそもの選択肢を与えられず、何かに興味を持つ時間もなかった。だから、大人になった今でも、自分が本当に何をしたいのか、何者なのかは分からない。
胡坐をかく。小さな墓標を尻尾で払い、苔や、埃の類を取り除いた。酒瓶を再び仰ぎ、アルコールが喉を焼くのに身を委ねてみる。僅かに雪を被った尾根を目で追いかけ、青く澄んだ空に目を細める。
「皇帝の持ち物じゃなくなったとして、俺達は何か別物になれるのか?手探りで、またどこかの誰かの靴を舐めるのか?」
答えるものなどない。静かに風が吹き抜けてゆくだけだ。俺はとろんとした瞼を閉じ、湿った鼻から思い切り息を吸い込む。冷たい空気が脳に行き渡ると、背後から戦友たちの笑い声が聞こえた。
『たまには楽しいこと話しやがれ』
『愚痴聞かされるこっちの身にもなってみろよ』
『お前はもう随分自由だろうが』
再び細く目を開く。雲海と雪化粧の尾根の上に、青い空が圧し掛かっている。それはどこか遠くのものを遮るようにして広がり、太陽放射がその上に貼りついて轢き回されている。神々と人を遮る青い『何か』が、俺達と人との間に確かにあると思う。
「なぁ、だったら、何でこんなに息苦しいんだよ。人間達はもっと、こう、自由を楽しんでるんだろうが」
『自分の道を選ぶのに、手探りでしなきゃいけないんだから、自由ってのは苦しいもんだろう』
『苦しい世界で態々生きるのか?相変わらずフェケッテは変だよなー』
『そんなことより酒をくれよ!俺の自由が欲してるよ!』
瞳を大きく開き、後ろを振り返る。そこには苔むした石ころが積みあがっているだけだった。
俺は苦笑いを零す。幻聴に耳を傾けて、愚痴を聞いてもらうというのは、冷静に考えるとひどく恥ずかしいことだ。立ち上がり背伸びをし、真ん中の墓に酒を数滴たらす。自然と尻尾が揺れ、耳が静かに立った。
俺は助走をつけて岩肌を駆け下りる。強引に驢馬の上に飛び乗ると、暴れる驢馬の腹を蹴りながら、トンネルの入り口まで、最高速で駆け下りていった。