‐‐1903年、夏の第三月第一週、エストーラ、ノースタット郊外‐‐
闇の中で浮かび上がる疫病記念柱の女神の白い顔、澄んだ硝子を使ったショーウィンドウ、趣深い灯や、夜に浮かび上がる神々の姿。町は賑わいを失い、力を失っていたが、郊外の田園から見るノースタットの輝きは、代え難い美しさを残したままだった。
「ルルちゃあん、夏とはいえ夜は冷えるよぉ」
「おっちゃん、ノースタットは夜景がきれいねぇ」
殆ど裸同然の薄着を着た農夫に、ルイーゼは片手を挙げて挨拶をした。
畦道で体育座りをしたままのルイーゼは、どこか楽し気に鼻歌を歌っている。農夫は隣に胡坐をかき、背中を丸めて都心を眺めた。
かつて市壁のあったリング・シュトラーセを挟んで、彼らの農地の近くにも多くの商店が出来た。それらが結局は都市と郊外を分けてはいたのだが、見えるようになった背の高い建物の数は多い。農夫はにやにやとしながら、ルイーゼの方を向いた。
「ノースタットは綺麗だけど、昔は見えなかったんだよ」
「そうなん?勿体ねぇ」
農夫はからからと笑った。収穫を終えた麦畑を背に、身長差のある二つの頭が同じ都市を見つめる。夜の闇に溶け込んで、虫の声がこだまする。
「ルルちゃんらが来てから、いろいろ知らない技術が入ってきてよ。わしらも助かっとるんよ。手伝ってくれてありがとねぇ」
「土地を借りとるのは私らやん。当たり前のことよ」
ルイーゼは、体育座りをしたまま体を前後に揺らす。農夫は目を細める。
リング・シュトラーセを、死体運搬車が進んでいく。
「こぉんな綺麗な都市をさ、作った皇帝さんは素敵な人やね」
彼女の言葉に、農夫は微妙な表情を浮かべる。彼の脳裏には、高い市壁や、加速して車道を進む馬車の姿が過った。
「歴代皇帝全てがいい人だったわけじゃないよ。俺たちが伝え聞いている人らはね」
ルイーゼの無垢な瞳は、記念柱の灯りで輝いている。痩身になってしまった農夫は、伏せた目をそっと開いた。
「今の皇帝が、悪い人じゃないっていうのは本当だよ。俺たちが見て知ったことだからね」
僅かな時間、互いに見つめ合う。道路を囲む建物の灯りが一つずつ消えていく。
「プロアニアの人にも、いいのも悪いのもいる。当たり前のことなのに、俺たちも勘違いしそうだったんだよ」
ルイーゼは首を傾げた。寝静まる町の中で、教会の薔薇窓が僅かに灯りを零している。
「陛下はムスコールブルクから来たから、きっとほかの国のことも分かっていたんだね。人の心は変わらないって。ここまで選択を間違え続けた人だけど、きっと道を外れることだけはしてこなかったんだね。陛下の凄いところはそこだけで、そこが凄いんだよ」
「じゃあ、皇帝さんとフェケッテは一緒やね」
ルイーゼはくしゃりと笑った。今度は農夫が首を傾げる。温い風が吹き、堆肥の臭いが二人の鼻に届いた。
「そろそろ戻ろう、ルルちゃん。夜更かしは肌に悪いよ」
「町の明かりも落ちたしなぁ」
ルイーゼが背伸びをして立ち上がり尻を払い、手をぶらつかせながら歩き出した。農夫も腰を持ち上げて、大きく体を反らしてほぐすと、早歩きで彼女の後ろに続いた。
二人の影が小さなあばら家へと向かっていく。
長い畦道の左手には、広大な畑が広がる。収穫を終えた麦畑は丸裸で、刈り取った麦の落ち穂まで、一つ残らず回収されている。右手にある眠りに落ちた町では、死体運搬車が時折立ち止まっては進んでいく。
ふと、ルイーゼが空を見上げる。そこには、彼女の村では見られなかった小さな星々や、優しい月が微笑みながら浮かんでいた。
「星も綺麗やねぇ」
そう一言零すと、彼女はスキップしながら、農夫と並んで歩いた。