‐‐1903年、夏の第三月第一週、エストーラ、ノースタット‐‐
陛下は宮殿の執務室に戻ると、公文書用の立派な羊皮紙を、取り出されました。そのまま長い時間を過ごされ、諦めたように羊皮紙を仕舞われます。その一連の動作をもれなく見ていた私はもどかしさのあまり、揃えた手を何度も組み替えておりました。
陛下は溜息を零し、騒々しく虫が鳴く、外の様子を覗かれます。空は穏やかで晴れ渡っておりましたが、広場にかつての賑わいはありません。陛下の愛した邸内の動物園も、空っぽの檻がひたすら続くばかりでした。
陛下の腹の音が鳴ります。遠慮したような僅かな声を零し、陛下はさり気なく、その御手で腹を摩りました。
「陛下、気晴らしになるかは分かりませんが、水晶をご覧になっては如何でしょうか?カペル王国やムスコール大公国のものならば、まだご覧になれるはずですよ」
「ノア。それもいいかも知れないね」
陛下はそう仰ると、水晶の元へと向かわれました。その皺の寄った手で変わらぬ光を放つ水晶を撫でると、はじめにムスコールブルクの曇り空が映りました。
町は賑わい、以前の景気をすっかり取り戻しております。彼らにとっては貴重な恵みの季節であることも手伝って、薄手の服を身に纏った人々が街を闊歩し、仕事に勤しんだり、ショッピングを楽しんだり、学生が猥談をしながら通り過ぎたりする様子が映っております。古いコランド教会の玄関口では、貧民がバケツを片手に雑談に勤しんでおります。視界の隅では、ガス灯の魚尾がアップで映り、往来する人を密やかに見守っておりました。
陛下は大きく息を吸い、水晶を更に操作されます。公国の様々な風景が映り、庶民の穏やかな生活の風景や、仕事を求めていた行列のいなくなった街路、相変わらず紛糾する議会などが次々と映りました。それは目にも鮮やかで、私達の見られる光景にはなくなってしまった輝きを放っていました。
陛下は一つ一つの風景を丁寧に長時間見つめ、最後にムスコールブルクの街並みが水晶に映ると、嗚咽を零されました。
「陛下……?」
「コボルト達の姿が本当にないのだね……。どうしてこんなにも、現実は惨いのだろうか!」
「あっ……」
いずれはエストーラも公国のように豊かに……などと、浅慮な羨望を抱いた私には、頭を殴られたような衝撃でありました。
陛下は床にへたり込みます。柔らかい肌触りの絨毯にしんしんと雫が零れ、陛下の膝を濡らしました。
水晶は町の賑わいを映します。若者の弾けるような笑顔や、流行の茶色い毛皮のコートを腕にかけた婦人の姿、道に食べ残しを捨てる中産階級の労働者、それに群がる貧者の姿が、目まぐるしく現れては消えていきます。私は陛下の御傍に寄り、肩をお貸します。よろめく靴先に、涙が落ちて輝いておりました。
「コボルト達は無事でしょうか……?」
陛下は首を横に振ります。初めから何か、良からぬ事実を知っておられたかのように。
「コボルトの難民たちも、ほんのわずかしか我が国まで辿り着けていない。閣下に出した手紙も随分返事がないまま戻ってこない。私達は完全に孤立しているのだ。ノア、私は命に代えても、臣民やあの国の仲間、コボルト達の命を守らなければならない。何か、何かヒントをくれ。直ぐにでもあの凶行を止めたい。彼らは平和を愛する心優しい人々だ、必ず分かってくれるはずだ。どうにもならないのか?また、指を咥えて見ているしかないのか?」
陛下は途轍もない早口で、捲し立てられます。私が声をかけても、答えを求めるだけです。
不幸と困窮と老いのあまりに思考も追いつかず、ただ老体を犠牲にすることしか出来ない。おいたわしや、陛下……。
私は静かに首を振り、陛下の背中を摩ります。
机上にはオオウミガラスの陶製人形が、逆光を受けて佇んでおりました。額縁の中の梟は、ただ静かに、陛下を見つめております。
嗚呼、神よ、何故陛下を苦しめるのですか?
太陽はじわじわと地平線の中へと沈んでいきます。答えるものもないままに、刻々と、命の刻限が近づいていくのです。