表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1903年
169/361

‐‐1903年、夏の第三月第一週、エストーラ、ノースタット1‐‐

 静まり返った町の中を、御用馬車が一台、音を殺して走っていきます。リング・シュトラーセの脇には、蠅の集った、天に召された人が虚ろな瞳で御用馬車を見つめておりました。骸骨のように頬はこけ、異様に膨らんだ腹に重たそうに細い腕を乗せ、棒のような足を道に放り出しております。老若男女の別もなく、そうした人々が最後に舞台座の方を向いて、命を枯らしていくのです。


 ノースタットの暗い空につきものの烏が、地に降りてそうした物を啄み、ますます丸くなった自らの腹を、屈強な翼で運んでいきます。

 大層満足そうに喉を鳴らし、御用馬車の上に糞を落とした烏に向けて、道の端から弾丸が放たれます。

 耐え難い悲鳴を上げて頭から地面へ落ちる烏に、マスケット銃を抱えた、頬のこけた男性が近づいていきます。

 真っすぐに空を……いいえ、獲物を睨みつけるその男性は、烏の首根っこを掴み上げると、とどめとばかりに頭を柄で殴りつけ、ふらつきながら暗い繁華街の方へと消えていきました。


 御用馬車は舞台座の道中にある小さな墓碑の前で停車します。私は馬車より降り、それに続いて降りるよろめく陛下を支えました。

 道中の悲惨な犠牲者同様、陛下も痩せ衰え、頬がこけて顔の影がより深く現れるようになりました。高齢による衰えと、陛下の臣民へ対するお心遣いの為に、いつ崩御されてもおかしくないほどでした。

 栄養失調で震える指先をそっと握り、銀の杖を頼りに歩く陛下を支え導きます。陛下は渇き切って掠れた声で、そっと答えます。


「すまないね、ノア……。私は」


 陛下は墓標の前に膝をつくと、ぶるぶると身を震わせながら杖を地面に置かれます。お召し物が泥で汚れるのも気に留めず、両手も地面に添えて、墓碑に向かって額をつかれました。


「陛下。もういいのですよ。臣民は貴方の身を案じています。陛下のお食事が配給に使われていても、それを臣民全員にあてがうことは出来ないのですよ」


 犬狩りで賄いきれる食料には限度がございます。末端の農場よりも、都市部郊外の農場の方が、規模が大きいのですから。

 プロアニアは今もカペル王国の侵略に尽力し、ますます力を増大させています。残酷なまでの『選択の格差』に、私共はただ項垂れることしか出来ません。


 ジェロニモ様が仰せの通り、帝国は攻め時も逃し、守る力さえ失ってしまったのです。陛下は真夏の地面の上に大粒の涙を零されます。落涙は露となって雑草に落ち、露は熱気に充てられて蒸発します。

 静かな嗚咽を終えた陛下は、膝を地面につけたまま、顔を持ち上げられました。


「私は、最早降伏をする道しかないのだと思う」


 陛下のしわがれた声が、虚しく墓前に響きます。墓石の上に置かれた花束は、城内に生えた雑草の花を毟ったものでした。


「問題は、プロアニアに降伏をすれば、臣民に不幸な未来が待つのではないかという懸念を拭いされないことだ。私はその為に躊躇している。何か、何かきっかけが無ければ……」


 陛下の声は弱弱しく震えております。そこで、ジェロニモ様であれば、最後の大抵抗を提案されるでしょう。フッサレル様であれば、プロアニアの人口比率の歪みを利用して、何らかの交渉を発案されるかもしれません。あるいはベリザリオ様であれば、プロアニアから奪うメリットよりも大きな交易のメリットを提案できるかもしれません。

 私には、何を提案することも出来ません。ただ、陛下の御心を慮ることしか出来ないのです。


「カサンドラの気持ちを汲み取ってあげられる夫であったなら、きっとこれ程民を傷つけはしなかっただろうね。私は……」


 陛下はよろめきながら立ち上がります。御用馬車に向けて手を振る人々は、皆陛下と同じく痩せ衰えておりました。

 陛下は穏やかな微笑みを作り、手を振る臣民に努めて気丈に応じられます。飢えもいよいよ限界という状況の中であっても、陛下に向けられた羨望の眼差しと、最高の敬意とは変わりありません。陛下は持ち上げたつばひろ帽を目深に被り直し、銀の杖を頼りに、御用馬車の中へと戻っていかれます。ご乗車に合わせて、私は陛下に肩を貸しました。


 陛下の乗車後しばらくして、馬車は宮殿への帰路に着きます。リング・シュトラーセの周辺に集った人々は、手や顔を泥で汚していましたが、帝国の犬鷲紋章に向けて、静かに敬礼をします。

 通りがかる商店の廃墟も、真新しい家屋の面影を残したまま、景観の一部となって、凛として佇んでおりました。


「最近はよく、カサンドラの手紙を思い出すのだよ」


 陛下は静かに項垂れ、仰せになりました。馬車は跳ねるのもやめて、静まり返っております。


「貴方がお優しく、臣民のことを第一に思っておられることは知っています。それでも、私は、叶う事ならば、貴方の特別でありたいのです」


 陛下は訥々と言葉を諳んじられます。私が声をかけるよりも前に、陛下は諦観に満ちた微笑みで続けられました。


「もっと臣民を特別に気に掛けられたなら……犠牲も悲しみも少なく済むはずなのに」


「陛下……」


 嗚呼、もどかしい。私達には何もできないのか。陛下をお助けすることは出来ないのか。


 馬車はベルクート宮へと到着し、地面に轍を残して停車します。銀の杖が持ち上がり、今にも斃れそうな老人が、馬車から一歩ずつ降りていきます。私は静かに俯き、陛下に付き添いました。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ