‐‐●◯1903年、夏の第二月第二週、カペル王国、ル・シャズー5‐‐
錫杖を持たない、黒い民族衣装を身に纏った二人組が、ル・シャズーの長い大通りを車両に乗って走っていく。開かれた窓から手を振ると、不安げな大衆たちが困惑をしながら大通りに集まってくる。
困惑しながら助手席に座る、浮かない表情の領主は、すっかり気落ちし、しかも酷く緊張しており、ぎこちなく手を振って期待に応じた。
車両を守るプロアニア兵は大通りに整列し、厳つい小銃を構えて花道を作っている。捧銃の中央を、黒い自動車が列を作って潜っていく。ル・シャズーの中央広場まで至ると、領主の凱旋を祝す音楽家たちが、ファンファーレで車の行列を見送る。彼らの背後には職人に急ピッチで作らせた、木製看板が立てられ、『両王繁栄のために』との言葉と共に、二つの紋章が描かれていた。
普段は店舗の中で作業に勤しむ職人たちも、看板の出来栄えを確認するために、広場に集まっている。
広場に差し掛かり、最も人通りの多い十字路を通過するときには、先頭車両がわずかに速度を緩める。ヴィルヘルムとアムンゼン、レノーを乗せた車両が十字路の中心を通過する瞬間に、教会は正午の鐘を高らかに鳴らした。
尖塔から祈りの歌が市中に響き渡ると、市壁の奥から硬式飛行船が現れ、彼らの頭上を通過する。鐘楼よりもさらに高い位置を通り過ぎた飛行船から、カペル王国に群生する夏の花々が落とされる。花弁は大小さまざまで、彩り鮮やかに市内へと降り注ぐ。天使の羽根のように浮動しながら風に靡き、ふわふわと花弁が大通り、路地裏、屋根の上へと落ちた。
教会の鐘の音が終わると、車両と飛行船が丁度行き違い、車は再び加速する。
捧銃の間から、無数の青い瞳が見慣れない車両の行列を覗き込む。昼食のために外に出た人々の視線を一身に受けながら、車は市門へと下っていく。
ヴィルヘルム達を最後に見送るのは市門前の噴水である。カペラの盃から零れ落ちる水が、夏の強い日差しを受けてキラキラと輝いている。カペラは上の空で遠くを眺めながら、黒い車両が門を潜った背中を見送った。
第二歩兵連隊長は、首元に望遠鏡を提げたまま、美しい景観が残った町の光景を眺めて目を細めた。
彼の隣には、兵装を身に纏った、高貴な女性の姿がある。彼女は帽子を目深に被り、さらしを胸に巻いて、白い素肌をほんのわずかに覗かせる。腰を締め付けるコルセットの周りには、丸めた古着を何重にも詰め込んで、兵士らしい体格を無理矢理偽装している。
「ル・シャズーに招かれないままで、いつの間にか8年も経ってしまいました」
遠い記憶を懐かしむように、兵装の女性は呟く。連隊長は強い罪悪感を抱いて、重い頭を下ろした。女性は小さく笑い、連隊長の背中を優しく叩く。
「いいいのですよ。誇りある生き方を、マリー・マヌエラは望んでいます」
青い空の中を白い雲が穏やかに流れている。からりとした太陽は機嫌よさげに降り注ぎ、血や肉や、爛れた大地の臭いのない道を照らしている。
長大な歩兵連隊の行列は、大通りの中央を綺麗に縁取り、中心にある下水を流すための溝を中心として、等間隔に整列している。その整然とした立ち姿は、通行人に厳かな儀式の始まりを伝え、彼らは緊張しきった表情で、兵装の行列が守る内側を覗き込んでいる。
「貴女は、私達が来なければ、血や肉や、あらゆる悍ましいものを知らずに生きられたはずでした。自分の穏やかな生活と、民の喜びを受け、さざめく太陽のようにブリュージュを照らし続けることも出来たでしょう。貴女ほどの誇りある人であれば、そうあって許されたはずなのです」
ウァロー城側の市門が厳かに開かれる。連隊長は即座に捧銃をして見せ、僅かに遅れてマリーがそれに続いた。寸分も違わぬ、息の合った軍隊式の敬礼は、その日だけは僅かにずれたのである。乾いた足元で、陽炎が揺れている。
仰々しい市の雰囲気を背負ってもなお、兵士達はその全てがこの世の天国のように静かで穏やかなもののように思えた。ル・シャズーの人々が絶叫を上げずに足を止めているという平穏さに、不意に連隊長の目頭が熱くなる。
マリー・マヌエラという人が、強大な敵を前にして所領を守る誇り高き騎士であったこと、領主として相応しい品格と高潔さを備えていること、それらをすべて奪ったのが、他ならぬ自分達であるということ。窮屈で陰惨な夜の倉に閉じ込めて、彼女を持ち物のようにこの場所まで運んだこと。
‐‐持ち物と言えば‐‐
ヴィロング要塞で散っていった仲間達の姿が脳裏を過る。地面に伏した者たちの荷物は、まだ命ある兵士達の糧となった。誰が誰の遺物を持っているのかも分からない。自分たちが身に纏う、薄汚れた軍服のどこかに、彼らの魂を連れた荷物が潜んでいる。
空は青く澄んでいる。市門を潜る黒い車が、連隊長の前を通過していく。
ル・シャズーの市民たちが不安げに車を見つめる。その視線を遮るように、歩兵達は武器を空に掲げ、胸を張って立ち塞がった。
車の列は連隊長の前を通り過ぎ、視界の端からも消えていく。やがて車両は広場の辺りで、空を覆う飛行船とすれ違うだろう。天高く伸びる教会の尖塔よりも高みを征く、神の倉を越える人智を、鐘楼が祝福することになる。それは『人の勝利』である。骸の上に立つ彼らの勝利である。
「マリー様、私達は多くを奪い、神の倉を越えました」
マリーは深く被った帽子の裏で微笑んでいる。俯く女性の柔肌は未だに滑らかだが、爛れた夜遊びで酷く艶やかに変わってしまった。
「もし、もしもですよ。私達が勝利し、カペル王国をその掌中に収めたとしたら、貴女は何処に行くのでしょうか」
「私はプロアニア王に隷するのではありません。私の意志でここに立ち、貴方達と共に『闘う』のです。貴方達の意志が曲がることのない限り、私の意志が曲がることもありません」
目深に被った帽子の裏で、彼女の眼が弧を描く。朱に染めた唇が持ち上がる。
連隊長は思わずため息を零した。
夏の険しい日光が石の道を焼く。民衆は散り散りになり、彼らの背後から去っていく。車を追う者、日常に戻る者、その者たちは、彼らの心の動きなどには、何らの関心も示さない。
何故なら、プロアニア人は人の心を持たない機械なのだから。
「私は、私達の力で必ずペアリスを落として見せます。祖国に豊かさを届ける糧となります。貴女も、どうか共に戦って下さい。命を散らして立ち向かう私達の為に」
これからも奪い続けるだろう。豊かさを渇望する命の醜さを晒し続けるに違いない。世界がプロアニアを敵に回して、誰も彼らを理解しないとしても、そこに一本の芯があると、『人間』であると、誰かが認めてくれるのであれば。
連隊長は、天へ向けた銃を下ろした。高い青空に祝福の鐘が鳴り響く。中央広場から風に乗って、矢車菊の花弁が降り注いだ。
「Bleuet……」
花弁は連隊長の手の平に落ちる。彼はその手を、そっと握りしめた。