‐‐●◯1903年、夏の第二月第二週、カペル王国、ル・シャズー3‐‐
穴ぼこと血糊で汚れた道を、黒塗りの車が高速で進んでいく。砂利と廃材で整えられた道では、溝のついたタイヤもがたつきながら回転し、車体をしきりに上下に揺する。ヴィルヘルムは車両の揺れを受け、不愉快そうに顔を顰めた。
「もう少しいい道はないの?」
「未舗装の道ですから、致し方ありません」
ヴィルヘルムは唸り声をあげ、肘掛けで頬杖をつく。長旅でくたびれた細い体には、些細な小石による振動も、酷く苦痛に感じられた。
やがて、損傷のない土の道が続くようになる。それでもなお車体は揺れる。ヴィルヘルムはしかめ面をしたまま、無防備な欠伸を零した。
幾つかの緩やかな丘陵を上り下ると、ようやく前方にル・シャズーの外観が現れる。市壁の外側には広大な平野が広がり、市壁の外側や、ウァロー城の外周に広大な穀倉地帯が広がっている。背の高い麦穂は重みにしなり、風を受けて規則的に靡いている。市壁周辺で腰を曲げ、耕地を耕す農民たちが立ち上がり、見慣れない黒塗りの馬車を不思議そうに見送っている。
アムンゼンは近づいてくる市壁を、相変わらずの無表情で見つめていた。
道中では散々破壊されつくした建物を見たが、ル・シャズーの市壁には倒壊する予兆すらない。ただ車両が通るには手狭に思える市門が、大きく口を開けて待っているだけである。
「歓迎はされないだろうね」
ヴィルヘルムは尻を気にしながら呟く。表情こそ怒ったように固いが、声はどこか楽し気な調子であった。アムンゼンは暫くしてから答えた。
「それはそうでしょう。だからこそ内密にと進めたのです」
先頭の車両が市門を抜ける。それに続々と車両が連なり、二人の乗車した車両も市門を潜った。
道路の中心には薄っすらと水の這った水路のようなものがある。この水路を中心に、道の左に寄って、車両の行列が続く。
ル・シャズーの市民たちは通り過ぎる自動車を不安げに見送る。その様子を硝子越しに見つけたヴィルヘルムは、パレードでするように小さく手を振った。市民は慌てて視線を外し、腫物を視界に入れないように歩き始めた。
「いやぁ、嫌われているねぇ」
ヴィルヘルムも正面を向きなおる。正面の車窓からは、ル・シャズーの象徴的な獣でもある、巨大な四足獣、シャズの銅像を見ることが出来る。舌を出し、牙を剥き出しにした、目の焦点が合わない銅像で、人間に本能的な危険を感じさせるような風貌である。
ヴィルヘルムは興味深そうに銅像を眺め、通り過ぎた後も視線で追いかける。アムンゼンは前だけを向いたまま、中心街の広場を通り抜けた。
「狼の巣だ」
ヴィルヘルムはぽつりと呟く。市民たちは不安げに車の後ろ姿を見送った。
黒塗りの車は排気ガスを噴き出しながら、ウァロー城までの一本道を突き進んでいく。
車はル・シャズーの市壁を再び潜り、巨大な穀倉地帯が広がるウァロー城前の平野に差し掛かる。ヴィルヘルムは座席から尻を浮かせ、運転手の背もたれに顎を乗せた。いつになく輝きを宿した瞳で、風に靡く小麦畑を見つめている。
「あぁ。アムンゼン!これさえ手に入れば、プロアニアは安泰だと思わないか?」
「ねずみ講の示す通り、人口は耕地に対して遥かに速く増加していきます。長い未来を見据えるならば、開発を急ぐ必要はあるでしょう」
アムンゼンの言葉に、ヴィルヘルムの笑顔が曇る。彼は元いた席に腰を掛け直すと、安全装置を付けたままの拳銃を杖のようにして、肘掛けに突き立てた。
「……もっともな意見だ。プロアニアが技術の開発を怠れば、世界は暗澹に落ちるだろう」
「えぇ。技術を牽引できるのは、我が国をおいて他にはありません」
車両は首を垂れる麦穂の中を、列をなして進む。視線の先には、一際巨大な避雷針のように聳えるウァロー城があった。彼らは眩いものを見るかのように、麦畑に目を細めながら前進する。
鉄柵を越え、田園風景から芝生の広がる広大な領地へ入る。灰色の塗料で壁面を塗った別棟の高い尖塔が、彼らを迎え入れた。
田園風景には見られなかった季節の花々が、芝生と垣根の道の間に咲き乱れる。大小さまざまな花が可憐に咲き誇り、低木と垣根にも鮮やかな緑が映えている。
「カペル王国は鮮やかだね。神は随分と差別するものだ」
「それを均すのは人の務めです」
「道理だね」
車両が本棟に近づく。眼鏡橋の前に立つ兵士が、プロアニア王の車両を認めると、跳ね橋を下ろすように合図をした。
ぎぃ、と木材のきしむ音と、鎖を巻きつける音が辺りに響く。車は跳ね橋がおり切るまでの短い間停車をし、やがて完全に跳ね橋が眼鏡橋と連結をすると、エンジンがかけられる。
排気ガスが麦畑に向かって風で靡き、澄み渡る青空へと霧散していく。背の高い二つの守衛塔の間を、黒塗りの自動車が潜り抜けた。
プロアニア王国国王、ヴィルヘルム・フォン・ホーエンハイムは、カペル王国第二位の王位継承権者、レノー・ディ・ウァローの邸宅へ、無血の入城を果たした。