‐‐1903年、夏の第二月第一週、カペル王国、ル・シャズー2‐‐
カペル王国の敗北はもはや自明のことと思われた。私は眼鏡をかけ、封書を裏返した。綴じた蝋にはホーエンハイム家の印璽が使われている。
確かに本物であることを確認し、慎重に封を解いた。
封書の中には、数枚の薄い紙が入っていた。羊皮紙ではなく、植物の繊維を溶かして作った目の粗い紙である。
失礼千万に思える紙の選びに、思わず額に青筋が浮かぶ。努めて平静を装って、手紙を開く。
『親愛なる レノー・ディ・ウァロー様
貴方もご存じの通り、我が国の圧倒的な戦力は、最早貴国の戦力では太刀打ちできないほど強大なものとなっている。この圧倒的な戦力で以て、貴方を蹂躙することも、一興ではあると思うが、我々は元来平和を望む民族である。貴方に戦いの意思が最早ないという事であれば、我々はウァロー家の所領であるル・シャズーへの攻撃を取りやめ、貴方の安全を保障することを約束する。
また、貴方に慈悲の心があるのであれば、我が国の食糧難に同情し、当該事件における我が国の正当性に同意をしてくれることと思う。
そこで、もしあなたが我が国に協賛し、その力の幾らかを貸してくれるのであれば、これは新たな提案だが、ウァロー家はカペル王国の由緒ある家系であることに鑑み、我が国が統治する旧カペル王国領のいくつかの地域において、貴方を総督として迎え入れようと考えている。
貴方がカペル王国の新たな統治者として、その辣腕を振るわれることを期待する。
末筆ではあるが、我々の友好が平和への架け橋となることを、切に願っている。
ブランドブラグ辺境伯にしてプロアニア王国国王 ヴィルヘルム・フォン・ホーエンハイム』
何たる屈辱だろう!私は思わず手紙を破り捨てた。粉々になった親書は、パラパラと宙を舞い、床へと降り注ぐ。私の眼差しを受けて、空中を踊る手紙は簡潔なインクの染みから燃え上がり、床に落ちる前に完全に焼失した。
灰が靴の先にかかる。私は爪先を左右に揺らし、零れた灰を踏み躙った。
「いいや。四ヵ国戦争のときにとどめを刺しておけばよかったのだ」
プロアニアの国王などという、格下の存在に、慈悲やら称賛やらを求められる筋合いはない。これまでこちらが生かしてやってきた恩義さえ忘れ、私を見下げる無礼極まりない態度。私は灰となった手紙を靴で払い取り、再び席に着いた。
返信を書かなければ。私はペンを取った。何も相手のレベルまで、私が落ちる必要はない。先ずは冷静に、断りの言葉を伝えよう。『落とせるものなら落として見せよ』と。
……羽ペンをインクに浸し、羊皮紙に丁寧にペン先を重ねていく。
鼻先から汗が滴り落ちる。汗は羊皮紙に薄く広がり、小さな染みとなった。私はナイフを手に取り、染みを削り出す。再び汗が鼻先を伝い滴り落ちる。再び染みを削り出す。
額の青筋が引き、冷静な思考力が戻って来る。プロアニア王の提案は案外悪くない。それに、思い出してみれば態度こそ失礼千万ではあるが、私に支援と協賛を願い出る申し出であったように思えた。
私は顔をハンカチーフで拭い、これで顔を仰いで頭に風を送る。
なるほど、彼らは私と協力をした方が自国の窮状を打開するのには有益だと考えたのだ。私は羽ペンをインクに浸し、新たな羊皮紙を取り出した。
そもそも、私が忠誠を誓ったのはカペル王家へであって、デフィネル王家へ忠誠を誓ったのではない。つまり、ここで確かに力をつけたらしい溝鼠……というには少々強力なプロアニア王に恩を売っておけば、ウァロー家とル・シャズーはともに安泰ではないか。
日も落ち着き始め、改めて菓子の配膳もされた。汗が滲むような夏の暑苦しさにも慣れて、発汗も収まった。やや赤茶けた紙の上を、羽ペンが躍るように通過していく。私は自然と滑る文字の美しさに、思わず顔を綻ばせ、満足げな笑みを零す。
甘すぎる紅茶を口に運ぶ。温く甘ったるいものの、冴え渡る脳に良い刺激を運んでくれる。羽ペンは再びインクに浸され、歓喜して私の言葉を紙に綴る。福音とは本当に、唐突に訪れるものである。
「よし」
私は最終確認をすると、インクに砂を塗し、それを羽で払った。上場の出来栄えに、思わず顔が綻ぶ。手紙を封筒に入れ、封蝋で綴じる。印璽で蝋を整え、侍女に声をかけた。
「返信が出来た!返してやるように!」
「畏まりました。お預かりいたします」
侍女は手紙を受け取ると、丁寧に頭を下げ、その場を後にする。私は甘い紅茶を一口飲み、錯乱のせいで却って程よい甘さになった茶菓子を頬張る。
「なるほど、これはうまいな」
茶菓子と紅茶の関係も、政治も大した違いはない。ウァロー家が残りさえすれば、まだこの国は安泰である。