‐‐1903年、夏の第二月第一週、カペル王国、ル・シャズー1‐‐
町の入り口には、女神カペラと天使達を象った噴水がある。横たわる女神カペラは杯に溢れんばかりに汲まれた水を滴らせ、天使の持つ皿から供物である葡萄を摘まみ上げる。豊穣の女神に相応しく、豊かな体躯と類稀なる美貌を備えた像は、国王よりもなおも王と謳われた、ウァロー家の出資によって建てられた。
雑魚寝の宴会はカペル王国建国よりはるか古の時代に行われた宴会のスタイルであり、こうした貢物の数々も、在来種の果物で揃えられている。
この美しい女神像の前では、説教師が、王国滅亡の危機を説いている。不安げに説教を聞く庶民たちは、いつもの忙しない経済活動の手を止めてしまっている。
篤信家は、説教師の前に跪き、真剣に、彼らの最期の時に備えて祈りを捧げている。
この光景を目の当たりにするだけで終末の時を感じずにはいられない強い閉塞感の中、デフィネル王家の海豚紋が描かれた三頭立ての馬車が、ル・シャズーの市門を潜り抜けた。
「馬車通ります!開けて、開けて!」
先供の掛け声が説教師の熱弁に被さって響く。先供は全速力の疾走で噴水から真反対の市門へと駆けていく。
馬車は説教師の周りに集う人々を無理な方向転換で押し退け、乱暴に方向転換をしながら、先供の後を追いかける。それでも、大都市ル・シャズーの人通りは、普段と比べれば三割は少ない。
馬車の内装はふかふかの座席を持つ豪奢なものだが、領主レノー・ディ・ウァローの苛立ちを抑えるには至らなかった。彼は腕を組み、貧乏ゆすりをしながら、歯を剥き出しにして御者台を睨んでいる。
「遅い!ウァロー城に何かあったらどうするのだ!」
「申し訳ございません。これが限界です!」
「言い訳は良いからさっさと走れ!」
レノーは外まで響くほどの怒号を発する。ル・シャズーの市民がその声の荒々しさに、レノーの機嫌の悪さについてひそひそと話をしあい始めた。その様子がますます苛立たしさを倍増させ、レノーは御者に対して再び「遅い!」と文句を垂れた。
ラ・フォイ陥落の報せを受け、宮廷の要職も兼任するレノーは、王の許可を得てル・シャズー防衛戦の為に帰省を果たした。説教師が仕事に組み込むほどの空前の危機に、彼は様々な怒りを抱えていた。
苛立ちを何とか抑え込みながら、狂乱の町を駆け抜ける。馬車は市門を再び潜り、広大な耕作地に囲まれた道を直進する。直進した先には、四方に鋭利な先端を持つ鉄製の柵に囲まれた宮殿がある。
緑萌え広がる庭園を、最高速の馬車が駆け抜けていく。車両を認めた兵士によって、跳ね橋が降ろされる。降ろされた跳ね橋と眼鏡橋の先端が重なり、開かれた跳ね橋から、古城が顔を覗かせた。
馬車は城門の前で急停車した。慣性で前のめりになったレノーはそのまま乱暴に馬車から飛び降りた。激しい息切れを起こしたレノーは、荒い呼吸のままずんずんと跳ね橋を渡り、手ずから城門を開いた。
「忌々しい溝鼠どもめ!」
彼は地団太のような激しい足運びで、エントランスを進んでいく。趣向を凝らしたシャンデリアが華やぎを添える下で、苛立った高齢男性はぎりぎりと歯軋りを続けた。
廊下には、青を基調とした豪奢な絵画がいくつか掛けられている。その一つは、自然物を集めた風景画の中に、貯水池が一つ、月を映して波打っていた。
レノーは『画家の間』と呼ばれる部屋を乱暴に開く。女流画家の風景画や肖像画などが壁に掛けられている中を、埃を巻き上げながら進んでいく。彼は古い小さな椅子に腰かけると、鼻を鳴らして視線を横に逸らした。
「第一、ナルボヌの商売女を娶ったのがまずかった!あれがけちのつき始めだ!」
侍女が彼のもとに紅茶と茶菓子を配膳する。レノーは銀製の砂糖入れを開けると、角砂糖三粒を乱暴に紅茶へと放り込んだ。スプーンで激しく紅茶がかき混ぜられる。
「そもそも、この私が主戦場で戦うだと!?ふざけるのも大概にしたまえ!あんな子供の戯事になぞ付き合い切れん!」
まだ水流の落ち着いていない紅茶を口に運ぶ。一口飲みこんだ矢先、「あああああ、甘い!」と乱暴にソーサーにカップを置きなおした。
一通り乱暴な憤りが去ると、部屋に僅かな閑居が戻って来る。女流画家の作品の一つである、果物の盛り合わせに絵具を上からまぶしたような駄作を見上げ、彼は背凭れに体重を預けた。
「……型落ちのデフィネル王家が、魔術師の血を守ることもままならぬナルボヌやエストーラと姻戚を結べば、王国が弱体化するなど自明のことであったろうに……」
言葉は虚しく響く。レノーは首を背もたれに預け、天井を仰ぐ。天井には、築城当初最新の流行であった、宗教画を散りばめたフレスコ画があった。
カペル王国の王位を長らく独占したカペル王家が、狂王ピエールの代で断絶し、彼の母方であり、王家の古い親類でもあったデフィネル家が王位を継承した。
もし仮に、当時王位継承権としては第三位であったウァロー家が継承していれば、今のような悲惨な事態にはならなかったかもしれない。魔術師として優れた王家でなければ、技術的にも完全に後塵を拝する形となっているカペル王国を、外部の脅威から守ることは出来ない。
なにより、強力な王という守護者を失えば、内部においても王国の仕組みそのものが崩壊しかねない。
レノーは思い切り空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「……ウァロー家が王冠を戴かなかったその時点で、初めから負けておったのだ……」
烏の鳴き声が通り過ぎていく。薄ら暗い室内に、ノックの音が響き渡った。
「レノー様。ヴィルヘルム・フォン・ホーエンハイムから、親書が届いております」
レノーの淀んだ瞳が扉を向く。その目には、僅かに光が戻った。