‐‐●1896年夏の第二月第三週、エストーラ、ブリュージュ近郊‐‐
夏の穏やかな昼下がり、カペル王国からブリュージュへ訪れた商人たちは、どの宿も満室であることに、思わず不満を漏らしていた。
エストーラの飛び地であり、カペル王国とプロアニア王国の二か国に国境を接するブリュージュは、古くから人々の往来が激しく、夏や秋の大市の際には、町全体がお祭り騒ぎの様相を呈することで知られる。そのため、宿を早めに予約するために入場した行商人たちは、この異様な熱狂と、梅雨明けのからりとした夏の空気との区別がつかないでいた。
ある行商人は、夏だというのに黒いシルクハットに黒い民族衣装を身に纏った陰気なプロアニア人の乗る馬車とすれ違うのを不審に思っていた。彼らは皆顔面蒼白で、宿と銀行を行き来しては、彼らの帳簿を確認するのである。
これら小さな違和感を見過ごさなかった賢明な商人たちは、ブリュージュの宮殿に納税と共に挨拶に赴き、そしてこの異変について問い合わせを繰り返す。大きなバルコニーから往来する行商人たちに、恒例の礼儀正しさを試す伯爵夫人マリー・マヌエラ・フォン・ブリュージュ・ツ・ファストゥールは、違和感の正体に薄々感づき始めていた。
彼女は一口献上品の紅茶を啜ると、不安げに曇天が迫る東の城壁に視線を送る。夫が帰国するまでの間、共同統治者たるマリーは国境の守りを固めるように指示を出し、本国エストーラに使節を走らせた。
それでもなお、彼女の胸騒ぎは収まることがない。夫に忠誠を誓った民兵たちや近衛兵たちは、マリーの指示で簡単に動くことはできず、宮殿を守る盾としての機能しか期待できない。行商人たちには素早く退避を勧告したが、領民たちは逃れる場所もなく、また行き過ぎた警戒はかえってプロアニアの不信を買うことにもなりかねない。
その結果、彼女は第一に、「大市に先んじての交通網の混乱を避けるため」という名目で、多くの傭兵たちを雇い入れた。カペル王国の魔術師たちや、エストーラの奴隷軍人たちを中心とした国際色豊かな傭兵部隊は、市壁の守りや、常時広さのわりに窮屈な道路を警備する者として、彼方此方に配置された。それは軍事的には全く知識のない彼女なりの、最大限の警備であった。
「あぁ、悍ましい……。東の空が瘴気に満ちている。あの人はいつ帰ってくるのでしょう……」
聡い行商人たちが難を逃れたことを祈りながら、マリーはパイプを取り出す。分厚い木製のパイプの中に煙草を入れると、そわそわした様子で、指先に小さな火を起こす。これで煙草を燻らせると、彼女はむせるほど大量の煙を吸い込んだ。
「マヌエラ様、最重要市民の避難が完了いたしました」
近衛兵が簡潔に報告をする。ちょうど煙でむせ返った彼女は、口元を覆って眉根を寄せていた。
「有難う。プロアニア流れの資本家も、随時郊外に避難させなさい」
マリーはバルコニーから空模様を見つめたまま、兵士に指示を出す。ブリュージュを囲む田園地帯では、何とか生き延びた小麦が頭を垂らしていた。
「はっ」
兵士は伯爵夫人の御前だというのに駆け足でその場を後にする。
いずれにしても、ブリュージュ繁栄の鍵を握る商人たちだけは逃がさなければならない。彼女は静かに東の空を見つめながら、その他の棄民たち‐‐そこには自らさえ含んでいた‐‐が時間を稼ぐ方法について思案を巡らせていた。
分厚い曇天は、ブリュージュを守る森林の上に、木漏れ日が降り注ぐのを防いでいる。緩やかな丘陵の道には、ブリュージュからカペルへと逃れる資本家の馬車が疎らな列を作り、西へと登っていく。マリーは呼吸を整えて、再びパイプを咥えなおす。普段より強い苦みと若干の甘みが、彼女の緊張しきった神経を穏やかにする。
東の黒い雲は、既にすぐ目前に迫っていた。