‐‐1903年夏の第一月第二週、ムスコール大公国、首相官邸‐‐
首相官邸に西日が射しこんでいる。
電話機を前に立ち尽くしたシリヴェストールは、物憂い表情で街路を見おろした。
巨大な宮殿の一角にある首相官邸は、真っ赤な宮殿と同じ色をした分厚い外壁の建物であるが、今は守りの要である低い塀さえ不必要なほど、閑散としている。また、気候も陽気である。朝から夜まで水が凍らない短く有難い夏、泥濘も乾く無防備な季節ではあったが、人々が暑さに負けずに流行の茶色い毛皮で町を出回っている。
仮面の失業者はいなくなったが、シリヴェストールの胸にこびりついた真黒な滲みは、今も彼の心をざわつかせていた。
元来ムスコール大公国の民衆は他者を慮ることを良しとする善人である。それが故にある種の『市民活動家』が政治を間接的に取り仕切る構造が形成されたわけだが、もし、社会に彼の思惑が細部まで露呈してしまえば……考えただけで、彼は身震いした。
ヴィルヘルムの甘言に騙された『悪辣な首相』は、季節に似合わない分厚いコートを上衣掛けから手に取り、羽織る。ご自慢の袖の下にある大金を零さないように慎重に服の奥まで押し込みながら、執務室の扉を開けた。
彼が戸を開けてすぐの廊下に、警察省の長官が歩いていた。シリヴェストールは軽い会釈で通り過ぎようとしたが、長官の方から、彼に駆け寄ってきた。
「丁度良かった。閣下、確認されているコボルト奴隷の違法残留者の拘束者名簿です」
長官は急いでブリーフケースを開き、中から数枚の資料が入った紙袋を差し出した。紙袋の薄さを一瞥し、シリヴェストールはこれを受け取る。
「有難う。可能な限り保護し、観察処分としてくれ」
シリヴェストールは殆ど上の空で名簿を受け取った。長官は礼儀正しく彼に応じる。彼は資料を持った手を持ち上げて、長官へ「お疲れ様」とだけ伝えた。
コボルト奴隷の亡命者が後を絶たないという。
鋭意捜索中の警察隊に対して、彼は頑なに、エストーラ国境付近での捜査許可を下ろさなかった。
シリヴェストールは資料を適当に確認する仕草をする。目が滑りそうな番号の羅列を最後まで見るともなく見て、彼は名簿を鞄の中にしまい込んだ。
官邸の窓から射し込む茜色が、廊下を一色に染めている。政治戦の裏の舞台であるこの廊下は、壁面は白く澄んでいたが、それだけによく西日の色を映した。そこに一人分の長い影が映っている。
フローリングの床の上に敷かれた皮製の絨毯は、歩くたびに毛が沈み込み、心地よく足を包んでくれる。
シリヴェストールは先程の電話を思い起こし、全く別の懸念がそこまで迫って来ていることを感じた。
プロアニアから贈られてくる公開会議の議事録によれば、既に同国はカペル王国の主要な都市を幾つか制圧している。海沿いの北側や、ブリュージュからの主要な陸路、いずれも被害は極めて甚大ではあったが、主要都市のアビスも既に落としており、ペアリスへ迫るのも時間の問題であった。
そこで、彼なりに懸念されることが一つあった。
最悪、プロアニアがカペル王国を制圧した時、その権威が無尽蔵に拡大するのは、ムスコール大公国にとっても脅威となるのではないか。プロアニアへの融和政策をするにしても、彼らの要求が国家を飲み込みかねない懸念を拭い去れないことは、エストーラへの同国の対応を見れば明らかである。
殺気立った彼らが次に拡大を目指すのであれば、瀕死のエストーラではなく、手堅い天然の要塞で囲まれた、ムスコール大公国ではないか。徹底抗戦か、それとも搾取を受け容れるのか。首相である彼は、いよいよこれまで逃げ続けてきた選択を迫られていた。
彼は早足で当てもなく官邸をうろつきながら、脳裏を過る諸々の『プロアニア拡大』に関する懸念を整理していく。
彼らが次に占領する都市のことや、仮に最悪の事態まで至り、プロアニアが拡張した場合に、自国国境を守るために必要な軍備について。彼らよりもより素早く、軍事的に優位な兵器を開発する必要性。その為の予算について、野党に足を引っ張られないようにする方法。
殆どパンクしそうな頭の中で、彼は理屈を練りながら、熊のように徘徊を続ける。
やがて彼は立ち止まると、踵を返して執務室へと急ぎ足で戻る。
レフの言葉が、彼の脳裏を過る。
「国のことなど知ったことか。私は私の居場所を守るだけだ」
誰に告げるでもなく、怒りに満ちた声で呟いた。