‐‐1903年、夏の第一月第二週、タイガ地方2‐‐
木造の事務所に入ると、先程とは異なり、石鹸のにおいがほのかに漂っていた。レフは恐る恐る鼻から手を外し、深い安堵の溜息を吐くと、先ずは真っ先に、自分のデスクに荷物を置く。仮にも事務所長となったレフは、一番奥の広いスペースを占めるデスクが用意されており、外のにおいも気にならない程度には、入り口からも距離があった。レフはデスクの上にある真新しい電話機を手にする。直接ダイヤルを回す形式の電話機で、電話局を介さずに特定の電話機へと通話が可能である。レフはこの、黒塗りの電話機の受話器を取り、滑らかなボディを軽く撫で上げると、その指でダイヤルを回した。
三回目の呼び出しベルが鳴った後、通話相手が受話器を取る。
「はい、こちらはシリヴェストールです。ご用件は」
「シリヴェストール首相、私、先日コボルト奴隷等保護収容所の所長に就任いたしました、レフです。今、お時間はございますか?」
「レフ君か。すまないね。なり手がいなくて、このようになってしまって」
シリヴェストールが袖の下を擦る音が微かに響く。レフは静かで深い息を吐き、高鳴る心臓の鼓動を落ち着かせた。
「単刀直入に申し上げます。首相、これはやはり人道に悖る行為です。ご自身の保身のためにも、これ以上プロアニアに与するのはやめて下さい」
周囲には音一つない。タイガ地方特有の鼻につんと刺さるような空気が、静かに漂っている。
一人分のデスクの上には、コボルト奴隷の名簿がある。機械的な番号で示された奴隷達の名簿には、死亡、行方不明、健康、療養中などの淡白な健康状態と、各々の配属先が記されている。
やがて警察隊が見回りを終えて事務所へと戻って来る。レフは彼らに手を挙げて挨拶をし、会釈が返されるのを確かめると電話機ごと持ち上げて部屋の隅に隠れた。
長い沈黙の後、シリヴェストールは殆ど泣きそうな声で答えた。
「……何かをすれば叩かれる。何もしなければ叩かれる。もう疲れたよ、私は」
「首相」
「もし、私にいざという時があっても、君のポストは準備しておくから。今は我慢してくれないか」
極端なほどの部下へ対するへりくだった言葉遣い。それは、ムスコール大公国の高官たちに特有の振る舞いであった。レフは言葉を選ぶ。痩せ衰えたコボルト奴隷達が、それぞれの業務をするために、小さな建物から群れを成して歩いていく。肉球を苔むした大地に直接つけながら、殆ど人形のように規則正しく列をなしていた。
「首相、私のことは良いのです。ですが、コボルト達も我が国を支えた構成員の一人です。これでは、大福祉国家の恥となる。どうかこの真実を伝え、国民を目覚めさせては頂けませんか?」
「彼らは正義の夢の中にいる。目覚めることはないよ。ようやく、私の活動が認められるというのは皮肉だな……」
シリヴェストールはそう言うと、乱暴に受話器を置いた。レフは電話機を手に持ったまましばらく佇み、やがて受話器を置いた。
彼はデスクに戻る。今日輸送されてきたコボルト奴隷の名簿が、机の上に置かれている。健康状態、労働の可否、彼らに待つ結末などが、事務的で機械的な文字で記されている。レフは名簿を持ち上げ、頁数を見た。印刷された斜線で区切られた手書きの頁数には、27と刻まれている。最終頁は4000にも及び、およそ50名のコボルト奴隷達を記録した一枚の紙では、まだ収容は始まったばかりである。
レフは一枚一枚を捲り、番号だけが刻まれた名前欄からその人物の結末までを指でなぞった。思わず身震いをした彼は、古いコートを羽織る。事務所の上衣掛けには、流行の茶色いコートは一つも掛かっていなかった。
「君たち、首都では毛皮のコートが流行っているのを知っているかい?」
レフはたまらずに声をかけた。気まずい沈黙の後、警察隊の一人が、目を逸らして呟いた。
「よしてくださいよ。私達は仕事をしているだけです」
昼下がりの2時、6時間目の労働を告げる鐘が、収容所に響き渡った。