‐‐1903年、夏の第一月第二週、タイガ地方1‐‐
生い茂る針葉樹林に囲まれた辺境の貨物駅に下車するのはレフと、警察隊だけである。車両は暫く停車し、警察隊が貨物車両の中へ向けて車両から出るようにジェスチャーで促すと、規則正しい隊列を作った、コボルト奴隷達が連なって貨物駅へと下車を始めた。
コボルト奴隷は薄手の服と最低限の手荷物を抱え、不安げに周囲を見回している。非常に長い時間をかけて貨物車両から大量のコボルト奴隷達が下車を果たすと、武器を持つ警察隊がコボルト達の数を数えて記帳を始めた。くつろいだ様子の警察隊は股を軽く広げて記帳をし、数える者は大股でゆったりと歩いている。タイガ地方特有の身に凍みる寒さも短い夏のお陰で鳴りを潜めている。レフは上着を着なおし、彼らが動き出すのを待った。
やがて点呼が終わると、警察隊たちはコボルトを囲みながら歩き出す。レフはその最後尾について歩いた。苔むした地表にスパイク付きのブーツを履いた彼らの足跡が刻まれる。コボルト奴隷達は腕を摩り、肌寒そうにしながら彼らに同伴した。
スパイクの足跡が収容所に近づくにつれ、腐った魚のような生臭いにおいが周囲に充満し始める。秋の暮れのような低い太陽の灯りが周囲を照らし、緑色の地表に染みた露を輝かせる。ますます強くなる異臭に、レフは思わず眉を顰めた。
貨物駅のホームから歩くこと五分、既にコボルト達に疲労の色が見え始める。幼体から成獣まで様々な身長のコボルトが、耳を倒し、小さく身を震わせながら、収容所までの道を進む。やがて生臭さに混じって、微かな音楽が聞こえ始めた。ムスコール大公国特有の、力強いムスコール・ロマンの奏楽である。レフでさえ、その演奏の見事なことに驚き、同時に押し寄せる異臭と合わせて、その先にある世界の異様な光景を想像できずにたじろいだ。困惑の中、警察隊に連れられたコボルト達は、彼らの侘しい終の住まいを目の当たりにした。
異常な刺激臭、連なった薄い壁の建物群、ものものしい煙を立ち昇らせるごみの焼却所。収容所を囲む煉瓦の塀には、びっしりと苔のような鉄条網が張り巡らされている。彼らを歓迎するのは痩せ衰えたコボルトの音楽隊たちで、首の皮は骨に接着されたように貼りついている。虚ろで光をなくした瞳が、ヴィオラや、ティンパニ、トランペットを手に、仲間達の慣れ親しんだ音楽を奏でる。少数の肥えたコボルト達はその後ろで腕を組んで待ち構え、武装した人間の警察隊は、訪れるコボルトを注意深く観察する。
鉄格子の門が厳かに開かれ、歓迎の演奏が壁にぶつかり反響する。引継ぎを終えた警察隊の案内役は足早にその場を立ち去っていく。
レフは鼻をつまみ、しょぼくれた目を瞬かせながら、その異様な隔離空間に住む警察隊と握手を交わした。
声も出せず、目にさえ沁みる強烈な異臭と煤煙とが、レフの表情を険しくさせる。不安げなコボルト達に冷たい笑みを浮かべる、この場所では余裕のあるらしいコボルト達が、訪問者の身体を手で探りながら、指を立てたり、横を指さししていく。それに従って、警察隊がコボルト達をそれぞれ仕分けていく。
壮大な歓迎をした音楽隊たちは、余裕のあるコボルトに連れられて、小さな建物‐‐それはこの施設の中ではまだ建物らしい防寒設備を整えられた建物の一つであった‐‐へと向かっていく。レフは彼らの背中を目で追いかけた後、警察隊に声をかけた。
「所長に就任いたしました、レフ・シードロビチ・アレクセヴナといいます。実質的には降格ですが、まぁ、仲良くしてください」
「お気の毒に。ここは酷いもんですよ」
警察隊は目を細めて笑う。僅かでも周囲の空気に触れたくないのか、ほかの警察隊も同じように目を細めている。レフは握手もそこそこに、すぐさま鼻をつまみ直した。
「事務所は何処ですか?」
「あちらの建物です。『良い匂いがしますよ』」
警察隊が指をさしたのは、鉄条網付きの細長い柵に囲まれた、豪華とは言い難いが特別に貧相でもない焦げ茶色に塗装された建物であった。二階建てらしいその建物は、古い建材を再利用した木造建築であり、傾斜の大きい屋根は、分厚い茅葺であった。
「ありがとう」
レフは短く礼を言うと、小走りで指定された建物に向かった。