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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1903年
156/361

‐‐1903年夏の第一月第二週、ムスコール大公国、サンクト・ムスコールブルク‐‐

 ムスコール大公国には短い夏が訪れていた。道に緑色の一年草が萌え、乾燥した苔の生えた石畳が延々と続いている。年中薄着の貧民たちも外で活発に仕事に励み、上向きだした景気のせいか婦人も茶色い薄手のコートを手にかけて道を歩く。入り組んだ古い街並みの中を、角ばった車両が通り抜け、未舗装の歩道を歩く人々は排気ガスの後ろで咳き込む。


 市壁上部に設けられた格子状の落し門から町の外へと続く線路の前には、別れを惜しむ人々や、出張土産を持つ労働者などが入り混じって往来している。

 この駅のホームには、警察隊が屯し、貨物列車の前でコボルト奴隷達の収容記録を残している。茶色い毛並みのコボルト奴隷達の手荷物検査をする様を横目に、レフは巨大な旅行鞄を引き摺って二等車へと乗り込んだ。


 彼は小さく呻きながら入り口を跨ぎ、重い荷物に体を預けて溜息を吐くと、再び荷物を持ち上げてポケットに捻じ込んだ切符を片手に座席を探し始めた。


 最近まで疎らだったビジネス用の衣装を身に纏った人々が着座をして寝息を立てている。コボルトがこなしていた清掃員の作業を、制服を着た男性職員がこなしている。すれ違い様に挨拶を交わし、レフの座席へ真っすぐに向かうと、今流行りの茶色い毛皮のコートを膝にかけた人々が、出発までの暇を潰していた。


 鮨詰めの二等車とまではいかないが、疎らに労働者が着座する二等車の光景は、景気の大きな改善を示している。政府から齎された配給品のお陰で消費行動に一定の回復傾向がみられると、土地への投資や株式投資の熱狂が終わった穏やかな日常の風景が戻りつつあった。銀行の立て直し政策で古い財閥が復活を果たし、かつての通り財産を引き出し・預け入れができるようになったことも手伝い、人々は日常の喧騒を取り戻し始めている。


 レフは旅行鞄から暇つぶしの小説を取り出し、荷物を荷物置き場に押し上げる。そして着座をすると、薄い鼠色のひざ掛けを広げ、無防備な足元に掛けた。ほつれた糸を一つ二つ払い、読みかけの小説を開く。流行り病の流行に混迷を極めた都市の様子を描いたこの小説は、二世紀も前のエストーラで著されたものだ。


 迷信や妄信に捕らわれた人間の蛮行と、未来への絶望から、劇場への投資に生涯を捧げた人の姿まで描かれ、疫病が現代芸術への一定の貢献を齎したことを示唆している。蒸気機関車が汽笛を響かせると、出発を報せるの車内アナウンスが響き渡った。


 座席指定を取り損ねた人々がアナウンスの声に示し合わせたように駆けこんでくる。車掌はまだ一等車で切符の拝見をしているに違いない。


 再び前方で汽笛が鳴り響くと、市壁の落し門がゆっくりと上げられ、蒸気機関車が前進を始める。レフは静かに息を呑み、小説の頁を捲った。


 白い雪が解けて地表にびっしりと生した苔が地表を真緑に染め上げる。車両は軟らかい地盤の上に石で盛り上げたなだらかな線路に沿って、ヴォルエプル湖沼帯のじめじめとした、蒸し暑い道を進んでいく。この時期にしか見られない鳥や、夏毛の貂などが時折視界に映る。


 通り過ぎる景色はゆっくりと加速し、馬並みの速さまで加速すると、ウラジーミル行きの車内アナウンスが静かに告げた。


『この度は、公国横断鉄道をご利用いただきまして、誠にありがとうございます。本車両は、サンクト・ムスコールブルク駅発、ノヴゴロド経由、ウラジーミル行きです。途中、貨物駅を含め、終点ウラジーミルまで各駅停車となっております。なお、ノヴゴロドまでの所要日数は一週間となっております。繰り返します。本車両は……』


 夏の蒸し暑さを和らげる送風機が起動すると、レフの汗ばんだ背中から徐々に心地よい涼風が吹き、彼の体を冷やす。レフは一旦顔を持ち上げ、車両の座席から覗ける車内の様子を確かめた。

 寝息を立てる人、伝書板を読み始める人、景色を楽しむ人などがある。そうした普通の人々に混ざって、忙しなく車内を往来する人、慌てて立ち上がりトイレに向かう人などがある。静と動の入り混じった機関車の車内には、酒を売る車内販売の人が通りかかり、続けて車掌が切符を確認するために入って来る。窓越しの緑色の地表よりも、表情豊かな仕草の人々があった。


 ムスコール大公国は喧騒を取り戻し始めている。彼は再び小説に目を落とした。

 瘴気の原因となった人々を市内の埋葬所に生き埋めにしていく様子が描かれている。この時、現実には何が犠牲になったというのだろうか。


 西日を三度繰り返し、レフの手から小説が代わる代わる取り換えられる。伝書板も新たなものが車内に届き、始めに同乗した人の顔も疎らとなった。やがて車内アナウンスが目的の貨物駅への到着を告げる。レフは荷物を下ろし、窓越しに映る真新しい建造物群を、目を細めて追いかけた。


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