‐‐1903年夏の第一月第一週、カペル王国、デフィネル宮2‐‐
王宮を駆け巡った衝撃は、宴会場に集った閣僚たちを委縮させるのに十分な衝撃であった。
静けさの中で窓の外を眺めるフェルディナンドは、ふわりと浮かび上がるレースカーテンに隣り合って、深い深呼吸をした。
すずらんの香りが鼻腔をくすぐり、夏の始まりを告げる。鮮やかな緑が、都市に点々と彩りを添えている。
フェルディナンドは重たい鬘を外し、汗の滲んだ前髪を払う。
宮殿の豪華な調度品には、角やつまみ、取っ手に細やかな銀細工が用いられている。先程まで彼らが囲んだ机には真っ白な、絹のテーブルクロスが掛けられており、食事の儀式の際についた汚れも綺麗に落とされていた。漂白された世界の隅々に、深く暗い影がかかっている。
「立派になったな」
太い男性の声が、彼の背中から響く。穏やかな日差しに背を向けると、強面のアンリが目を細めて笑っていた。
僅かな沈黙の後、フェルディナンドは自嘲気味に笑みを零す。彼の大人びた含み笑いに、アンリの子供っぽい無邪気な笑みが返された。
「僕は守れるべきものを守ろうと思っただけです。嫌いになってもいいんですよ」
彼は故郷ノースタットに一番近い窓の桟を掴んでいる。西日が差せば綺麗な茜色が地平線に見えるだろうが、今は生憎、白い太陽が煌々と照りつけるだけである。
アンリは彼と隣り合って、窓の外を眺める。ペアリスの温く湿った風が、乾いた肌を撫でた。
「自分の矜持を持つことは良いことだ。人はそうして強くなる」
フェルディナンドは僅かに眉を顰め、口を結んだ。
‐‐男は強くあらねばならないのだろうか?‐‐
彼の義父は、ブリュージュから逃れてきたフランツのことを相当に嫌っている。彼は自国の領地を捨て、いわば血縁が繋いできた伝統と誇りを捨てて、フェルディナンドを頼って王国に退避してきた。「祈る人」であるオルクメステスであればともかく、領主、即ち「戦う人」であるフランツが、自国の防衛を捨てて逃亡を図るなど、アンリからすればとんでもないことであった。
しかし。フェルディナンドは窓の桟を握る手を強めた。
すずらんが香る美しい宮殿、名画と名画の隙間に名画が描かれ、壁にもたれ掛かる調度品が黄金や白銀に輝く華麗な宴会場に、黄昏の兆しがある。まさにこの渦中にある時、それをその身で受け止め切ることが、果たして正しいだろうか。あとにそれが残らないかも知れない時に、ただ、誇りという一事によって、命という一事を犠牲にしてよいものだろうか。フェルディナンドはアンリのことを理解しないではなかったが、それと同等以上にフランツのことも理解していた。
「カペル王国に来てから、周りにある輝くものが全て、守るべき物ように思えてなりません」
フェルディナンドは小さな声を振り絞る。隣り合うだけでアンリという男の熱気が伝わった。
「そうだな。私も同じ気持ちだ。王として、父として。守るべきものの為に戦おうと思う」
思わず首を振りたくなるのを抑える。彼には、それらを守るだけの力も覚悟もない。仮にアンリ王が出来るとしても、自分にはそれが出来るとは到底思えなかった。
何より、継戦の為に振るった詭弁も、彼の守るべきものを犠牲にするという選択であった。今も西の楽園を目指す巨大な濁流が、シュッツモートと黒い森のダムを決壊させることが無いように。彼に錫杖と槍を振るう力がない以上、詭弁に頼るよりほかなかった。少年には、守るものの利害が対立しすぎていた。
「陛下。もし僕が、家族に降りかかる災厄の種だったとしたならば、貴方は僕を排除しますか?」
自分も西に向かう濁流の水を引く小作農の一人である。自分の田に水を引き、家を守るのだから、田んぼの主人に手ひどく叱られても言い返しようもない。
「ないな。君は私の家族だ」
アンリは颯爽と答えた。あまりにも滑らかに、考える余地さえ与えない清々しい返答であった。
フェルディナンドの胸がずきりと痛む。彼は静かに頭を垂れて、自嘲気味な笑みをアンリに返した。
「そう、ですよね……」
ペアリスの隅々には、嫩葉のさざめきが見えている。まだ黄昏の日には早い。