‐‐1903年、春の第三月第四週、プロアニア、リーニギン‐‐
プロアニア王国北方は、ムスコール大公国をはじめとする北方諸国家との交易が盛んな、同国内では「比較的」開かれた都市であった。技術の漏洩を防ぐために居住区と商業区域との間には巨大な城壁が設けられていたものの、人の往来が盛んに行われており、一部には定住者となって他国から移住した者もいる。こうした性質から、首都ゲンテンブルクと険しい山岳地帯の多い南方地域とは違った技術の発展が生じており、プロアニア王国全体に共通する技術革新とは別に、他地域には広まっていない細かな技術革新が生じて浸透していることもある。自転車も、その例に当たると思われる。
フランシウムはその小さな工場を見たときに、それが地元の手工業者のそれであると完全に勘違いをしていた。歴史ある都市、リーニギンの居住区の外れにあるそれは、古い赤煉瓦の外壁と傾斜のある屋根を持ち、小さな看板を掲げてひっそりと佇んでいた。
「……意外に小さいものですな」
「まぁ、町工場などこんなものでしょう。存外、こういう場所に技術は蓄積されているものです」
アムンゼンは背中を丸め、ドアを開ける。かららん、というベルの音が鳴ると、受付で読書をしていた受付嬢が顔を上げた。
「いらっしゃいま……」
アムンゼンの鋭い眼光に射貫かれ、受付は硬直する。宰相自らが扉を開け、その後ろでは科学相フリッツがエントランスを見回している。受付嬢が慌てて本を閉ざして姿勢を正すと、フリッツは背後から苦笑交じりに答えた。
「アポなどはなかったから、楽にして。少し大事な話があるので、責任者を呼んでくれないかね」
「は、はい!ただいま!」
受付嬢は古い電話機に手をかける。充電用の手回し機を回しながら、何度も「もし、もし」と声をかけた。
暫くの応答の後、受付は受話器を置き、政府の重鎮に対して極端にへりくだった風に告げた。
「申し訳ございません。お手数をおかけしますが、少しだけお時間を頂きます」
「出来るだけ早く」
アムンゼンはそう告げると、無愛想な表情のまま待機用のソファに腰かける。見かねたフリッツが受付に軽い会釈をし、アムンゼンの隣に腰かけた。
秋の初めにあるような肌寒さと、湿った空気で室内が包まれている。受付の背後には見本用に人気の自転車が掛けられており、アムンゼンはそれに目を凝らした。
前輪にペダルが付属しているその自転車は、自動車と異なり殆ど場所をとらずに壁に寄りかかっているらしかった。
「馬や自動車と異なり飼料や燃料が要らないのは素晴らしいですね」
「技術的に真新しいものは無さそうですが、スマートで快適なら大層いいですね。技術は掛け算とはよく言ったものです」
アムンゼンは手を腿に置き、極端に前屈みになりながら扉を睨む。古い煉瓦の壁面は所々欠けており、触ればパラパラと崩れてしまいそうである。
建物の窓は狭く、また分厚く、扉は鉄製で塗装がなされていない。古い家屋特有の微かな黴臭さもあり、小さな豆電球で灯されただけのエントランスは壁際に行くほど仄暗くなっていく。
「今度の商談が成立すれば、この建物は今風に建て替えられそうですね」
フリッツが冗談交じりに呟くと、アムンゼンは静かに「訴求力のある発言ですか?」とだけ答えた。フリッツは小さくため息を零し、背もたれにもたれ掛かる。
「えぇ、まぁ。そんなところです」
手持ち無沙汰の待機を続けていると、暫くして男が、バタバタと音を立てながら走りこんでくる。受付の女性に対して一言二言声をかけた男は、ソファに腰かける二人を見て、商談用と分かる満面の笑みで近づいてきた。
アムンゼンとフリッツも立ち上がる。男は二人の手を強く握り、やや激しい握手をかわした。
「いやぁ、お待たせ致しました。宰相閣下にフリッツ閣下。お忙しい中わざわざご足労頂きまして、ありがとうございます」
三人は握手を交わすと、名刺を交換する。従業員の男は慎重に二人の顔と名刺を確認したあとで、それを名刺入れに大切に仕舞った。
「立ち話もなんですので、おかけください。あ、中の方がよろしいですか?」
「いえ、ここで良いです」
アムンゼンは無愛想に答える。彼は壁面を改めて確認すると、「えぇ、大丈夫です。ここがいい」と再度自分に言い聞かせるように答えた。
「そうですか!ではそのままお掛け下さい!」
二人が改めて腰かけると、先程の受付が熱いコーヒーを運んでくる。二人は短い礼を言い、カップに一口だけ口を付けた。
「それで、御用件は?」
「えぇ。自転車の軍事動員を考えておりまして」
従業員の顔が晴れる。彼は急いでパンフレットを取り出すと、嬉々とした表情で自社製品の特長を話し始めた。
「そこで、量産体制と軍事利用に必要な改良をしたいと考えておりまして、それについてご意見も合わせて頂きたいのですが」
「勿論です。具体的にはどのような改良なのですか?」
受付の女性の眉が一瞬ピクリと動く。
アムンゼンは言葉を選ぶために口を覆って黙り込んだ。それを目にしたフリッツは、すかさず机上に開かれたパンフレットの該当部分を指さしながら答えた。
「ここにあるペダルを後輪にチェーンで繋ぎ、車輪の自転によるペダルの動きを抑え、足の打撲を避けるというもの。また、この辺りに車輪を止めるためのブレーキ機能を設けること、と言った二点です。出来るだけ安全性が高く、小回りが利き、何より持ち運びやすいものをと考えております」
「はぁ……。分かりました。技術者と相談し、幾つか試作を作ってみましょう。ブレーキの位置はより操作しやすいところでよろしいですか?」
「咄嗟の出来事で間違って止まってしまうような明白すぎるところは出来れば避けて欲しいです」
アムンゼンが答える。従業員は頭を掻きながら、「そうですね……」と唸り声をあげた。
「分かりました。うちで即決して下されば、直ぐに幾つか試作機を御作りして応じますよ」
「多少値が張っても良いので、出来るだけ迅速にお願いします」
アムンゼンはパンフレットを適当に捲りながら答える。従業員の顔は晴れやかであったが、受付から彼の背中への視線は非常に冷たかった。彼は身震いをしつつ、何とか笑顔を守って応じる。
「畏まりました!では、早速準備に取り掛かりますね」
「よろしくお願いします」
アムンゼンは真っ先に立ち上がる。短い握手の後、彼は足早に店を後にする。フリッツは遅れて従業員と握手を交わす。
「君も大変だと思うが、世界のためだから頑張ってくれ」
フリッツの視線は受付へ向かっている。従業員は苦笑いを零す。フリッツは握手を終えると、柔和な笑みを湛えて周囲に聞こえるような溌溂とした声で続けた。
「何か注文のことで聞きたいことがあれば、私、フリッツに連絡をください」
「何から何までご丁寧にありがとうございます」
フリッツは小さく手を振り、従業員に見送られながら工場を後にした。