‐‐1903年、春の第三月第四週、プロアニア、ケヒルシュタイン‐ゲンテンブルク‐‐
機械化が進むプロアニアにおいて、自転車というものは開発から十分に時間が経っていたが、それは地域色の強い乗り物として、都心ではあまり知られていなかった。元はケヒルシュタイン周辺でペダルのない木造の軽車両として作られ、脚で地面を蹴ることで推進力を得る、乗り心地の悪い乗り物であった。後に足で地面を蹴る形式からペダルを漕ぎながら車輪を回す形式に改良された。
やがて車輪の一回転での移動距離を広げるために、前輪が極端に肥大化したものが現れたが、安定性の問題から、徐々に車輪の高さが平行に近い形に改良されていった。
アムンゼンは、中継地にある自転車専売店でその性能を細部まで確認し始めた。突然重鎮が訪問した、地方の小さな小売店の店主は、困惑と緊張から体を石の様にぎこちなく動かしながら、宰相アムンゼンと科学相フリッツの傍に付き従った。
店内は広い駐車場のようなコンクリート床の建物であり、壁面には安定の悪い自転車が置かれている。販売用の自転車は間隔をあけて車輪止めに転倒しないように並べられている。色自体は様々に塗装され、金額も自動車より安価である。
近年発明されたものとしては、周辺地域でよく利用されているらしいことがうかがえる。
アムンゼンは一番手近にある自転車の前に屈みこむ。店主は緊張した面持ちで、彼の傍に控えた。
「フランシウム閣下、これはどうやって止めるのですか?」
フリッツも片膝をついて自転車を覗き込む。車輪が前後に着いた形状の不思議さが、彼の知的な好奇心をくすぐった。
「足で止めるのでは?」
フリッツは店主に視線を向ける。彼も視線を受け、手を前で組みながら小さく頷いた。
「皆様足で止められますね」
店主の言葉に、アムンゼンは眉を顰める。店主は思わず凍り付き、口をパクパクさせながら言い訳を探し始める。
その自転車は、鉄パイプのような骨組みの上に、向きを変えるための持ち手、ハンドルと座席用のサドルが乗ったようなシンプルなものである。見かねたフリッツは、屈みこんでペダルをくるくると回し始めた。車輪が空中で空回りを始める。
「鐙?が車輪に付属しており、一度車輪が回ると勢いが止むまで回転を続けてしまいますな。この形ですと、止めるには足で止めるよりほかになさそうです」
「ペダルですね……」
フリッツがペダルから手を離す。アムンゼンは車輪を直接つかみ、乱暴に回転させた。空回りする前輪は、今度はペダル側を追い立てるように回りだす。
「鐙?ぺだる?が止まらなければ、脚に当たってけがをしてしまう。軍人の足は命の次に大切なのだが……。一番速いのはどれだ?」
店主は前輪が異様に巨大化した自転車を指し示した。
「こちらになります。この辺りではお祭りもあり、競技用に人気がありますよ。ただ、速度の代償として安定性が低く爪先が地面に届きません」
「それは危険が伴う。それではいけない」
車輪が徐々に力を失って減速を始める。ペダルの速度も同様に減速し、やがてゆっくりと停止した。
フリッツがアムンゼンに断りを入れ、車輪の傍に屈みこむ。専門家ではないフリッツであったが、こうした構造物自体には単純に好奇心が勝った。
辺鄙な自転車店に要人がいると聞きつけた野次馬達が、道すがら店内を覗き込みながら目的地へ向けて去っていく。注目すべき出来事も、主たる目的には優先されないというのは、この国特有の習慣である。
「……例えばですが。ペダルが車輪に付属しているから同時に動いてしまうのでしたら、ペダルの回転力を車輪に伝達させる機構を用いてやれば、ペダル自体が能動的にしか回転を始めず、利用できるのではないでしょうか。あとは、前輪の回転を停止させれば装置が停止するのでしょうから、何かを回転する車輪に当てる機能を持ち手の傍に置けば、停車もできるということにはなりませんか」
「可能なのですか?フランシウム閣下」
アムンゼンがフリッツの眼を直視して尋ねる。フリッツは車輪を見つめながら、一つ頷いた。
「えぇ、まぁ。幾つか工夫を凝らせば、何とか」
「君。この乗り物の開発元を教えてくれ。少し入用でね」
「は、はい。もちろんです」
「フランシウム閣下。大変恐縮なのですが、これを会議に持ち込みたいので、先にゲンテンブルクにお戻りください」
アムンゼンは立ち上がり、背筋を伸ばす。フリッツは苦しそうに腰を叩きながら、時間をかけて立ち上がった。
「私も興味があるので同伴しましょう。陛下には、電報を打って送りますよ」