‐‐1896年夏の第二月第三週、プロアニア、ゲンテンブルク‐‐
未だ馬鈴薯が流行り病の惨禍にある中で、バラックの宮殿前には「徴兵された」志願兵達が屯していた。彼らの手には赤い紙があり、そのほとんどが下級の労働者たちで、スコップを背負ったものや、もてる限りの武器を担いでいる者がある。
「どれもひどく痩せこけている。宛ら骸骨の軍勢だ」
ヴィルヘルムは楽しそうに指遊びをしながら、一段高い場所にある謁見の間から、窓越しに集まる若者たちを見下ろした。薄くファンデーションを塗った真っ白な横顔のすぐ後ろで、アムンゼンは既に演説の支度を済ましていた。
ヴィルヘルムは錫杖代わりの拳銃をひじ掛けの上に立てながら、面白そうにからからと笑う。大衆たちの沈んだ表情が、深い彫りが、一層に無表情な群れの感を強調している。
今朝も漂う折り重なった煤煙の中に、せき込む音が一つ響く。一層に白色を際立たせたヴィルヘルムの肌が、煤煙の中へと乗り出していく。判を押したような喝さいが、駐車場全体に響き渡った。
「国民諸君に、悲しい報せをしなければならない。エストーラ皇帝ヘルムートが、我らの地獄の災厄に対して、一切の支援をしないことを明言してきた。これにより我が国の貧困は一層に深刻化することだろう」
国王の言葉にどよめきが起こる。愕然とした大衆は煤に覆われた空を見上げた。彼らの外周を囲うようにして停車している馬車から演説を聞く資本家たちは、苛立たし気に時計の針を気にしている。プロアニア全土に設置された電波塔が、バチバチと音を飛ばす各家のラジオに同じ言葉を届ける。酷い音質にも慎重に耳を傾けた婦人たちは、先ずは目を剥いて驚き、そのままおいおいと泣き出してしまう。
「我が国は今、世界の中心で孤立している。何故なら、エストーラの皇帝がわが国民の勤勉とその成果を知り、嫉妬に狂っているからだ」
怒りに唇を戦慄かせる若い労働者たちが、スコップや、ツルハシを、そうしたものが手元にない者が、こぶしを突き上げて訴える。
宮殿の駐車場で熱狂が始まる中、ヴィルヘルムは優雅に指を絡めて、拳を突き上げる若人たちを見下ろす。
一拍分の熱狂の後、ヴィルヘルムは怒鳴るように声を荒げた。
「我が国の繁栄のために、今こそ団結せよ!」
国民たちは団結の勝鬨を上げる。いつになくやる気に満ちた労働者たちを前にして、資本家たちは荷物を纏めるために工場へと戻っていく。僅かに額に汗が浮いたヴィルヘルムが、声に応じて手を振ると、どこからともなく「プロアニア万歳」の声が響き渡った。
「我々はカペル王国の沈黙とエストーラの激昂に毅然とした態度で立ち向かうことだろう!そして、この国難は過去のものとなる!武器と鉄兜で以て、我らの団結ははるか西の果てまで轟くことになるだろう!」
ヴィルヘルムの後ろで控えていたアムンゼンとラルフは、小さな窓枠の向こうの信じ難い熱狂を前にして、思い思いの感動を抱いていた。
「プロアニア目覚めの時だ、アムンゼン」
ラルフは全身でガッツポーズを取り、国民の団結に自らの身を委ねる。天使の梯子が、雲の代わりに立ち込める煤煙の隙間から大衆のもとへと降り注ぐ。それは、仄暗いバラックの宮殿からは、希望と祝福に満ちた輝きのように思われた。
「えぇ。穏やかならざる歴史が、ようやく始まるのですね」
興奮気味に目を輝かせたラルフとは対照的に、無表情のアムンゼンは、ヴィルヘルムの背中を見守る。国内の安寧を祈ったピース・サインを高らかに掲げた瘦身の王は、一瞬アムンゼンのほうを振り向くと、悪魔のような微笑を浮かべた。
労働者たちの一部が、荷物を纏めた資本家の馬車にスコップの持ち手を引っかける。縮絨工場の群れから裏切り者の悲痛な叫び声が響き渡り、煤煙に翳って消え去っていく。川を跨いだ中州にある、古式ゆかしい公会堂から、長い、長い、警鐘の鐘が鳴り響いた。