‐‐1903年、春の第三月第四週、プロアニア、ケヒルシュタイン2‐‐
ケヒルシュタインとゲンテンブルクを繋ぐメトロポリタンを、御用車両が通過する。手を振る白衣やつなぎの人々に無表情で手を振り返すアムンゼンの隣で、フリッツは物憂げに煙草を燻らせる。咥えたパイプは彼の高齢とも相まってマフィアのボスのような風格を醸し出していた。
手を振る人々の背には硫黄のにおいが漂う鉱山があり、御用車両の後ろには海浜が広がる。ケヒルシュタインという大都市には、ゲンテンブルクに戻ることを躊躇わせるような自然の美しさと人工の利便性が馴染んでいるように思われた。
「アビスを落としたということは、次はミゼンですか」
「えぇ。ミゼン、を落とせばラ・フォイ、ル・シャズーですか。そこまでは問題なく進軍できるでしょう」
フリッツの問いに、アムンゼンは無表情で答える。車内に副流煙が充満し、ヤニ臭さを運ぶ。道路標識が速度制限の毎時80キールを示すと、車両は滑らかに加速を開始する。
「……リエーフとブローナは河川で繋がれた都市でしたね」
「特にブローナには巨大な河川があり、陸軍による突破は困難を極めます。貴族の邸宅も多くあり、つまり軍事転用可能な魔法を使える部隊も多くある。ペアリス攻略戦前の最後の難関となるでしょう」
「本気で首都を落とすおつもりですか?もう人口を支える穀倉地は十分に確保したように思われますが」
フリッツはハンドルを回して窓を開ける。白く濁った視界が徐々に開けていく。彼は再びパイプを口に含む。気休めの幸福感が全身を駆け巡った。
「我が国の経済は既に戦争無くしては成り立たない段階に入っています。お気づきかと思いますが、私の政策は全てが、戦争による経済回復と発展に収斂していきます。元よりこの道を選んだ以上は、我が国の経済から戦争を外すためには、相応の準備が必要となります」
「今、その準備に取り掛かっているということですか」
メトロポリタンの広く快適な道が続く。両端には以前の交易路にあった石垣が残され、その向こう側には背の高い多年草が生い茂っている。
カペル王国の飛行船も、国境から遠く離れたこの場所までは侵入できない。
「えぇ。カペル王国を無力化しなければ、国防費を経済政策に向けることは出来ませんので」
フリッツがパイプを揺する。御用車両のエンジン音が大きく唸りを上げた。対向車も、ケヒルシュタインで見慣れたワッペンを掲げた車両である。
「戦車が川を越えるには橋が必要でしょう?以前ブローナを訪れた際は、石橋が一本ありましたが」
「戦況の悪化を見越して、そこは解体しているでしょう。一度対岸を含めたブローナ全体を占領し、木造の橋を作るのがよいでしょう」
「ではやはり歩兵を対岸に渡す必要がありますね。機動力の高い歩兵を今から作るというのは、無理筋ではありませんか?」
フリッツは、眼鏡の隙間からアムンゼンを見上げる。その目は、彼の襟首をはっきりと見るために細められた。
窓から真っ白な煙が風に乗って流れていく。車の行路を空中に残すように、白い煙は小さな筋となって、霧深い公道に漂う。
その時、薄い鉄の板で覆われた、黒い御用車両と、自転車に跨る市民がすれ違った。
アムンゼンは通り過ぎていく自転車を一瞥し、一拍置いてフリッツに向き直った。
「いえ。案外うまくいくかもしれません」
フリッツは思わず身震いする。若い猫背の男は確信を持った笑みを浮かべ、深く椅子に座りなおした。
「現状、ブリュージュへ向かう行路が飛行船による破壊活動で深刻な被害を被っており、車両による運送は困難を伴いますね。その意味で、あれはいいかもしれません。それに、歩兵が使うにもいい」
「あれで川を渡るのですか?どうやって?」
「あれは狭い道も進めるでしょう。それに悪路ならば担いで行ける。そして、何より機動力の向上に燃料が不要と見えます。我が軍にこの上なく有用ではないでしょうか?」
真っすぐな道路の景色は殆ど変わらず、間もなく次の都市へと入場する。苔むした石垣の切れ目から、技術を秘匿するために建てられた市壁が見え始める。
「いずれにしても、ブローナ攻略戦までは時間もある。先ずは国内から前線への輸送に試験的に取り入れてみましょう」
アムンゼンはそこまで言い切ると、寒冷なハンザ地方の夕暮れを見つめる。冠鷲が、茜色に染まり始める空を飛び立っていった。