‐‐1903年、春の第二月第二週、プロアニア、ゲンテンブルク‐‐
煤煙に塗れた空の下で、襤褸を着た親子が身を寄せ合う。車窓の中の切り取られた景色は何処も変わらず、多くの痩せ衰えた人々が道の端に顔を出す。
アムンゼンは静かにそれを流し見ていると、すれ違い様にスーツの人々が親子に向けて柔らかい小麦のパンを投げた。途端に道に蹲る人々が、パンに群がり、奪い合いを始める。さらに婦人がその様を見て距離を置きつつ、取り合いに負けた人々に向けてパンを放り投げた。
「これはこれで地獄絵図ですね」
アムンゼンはそう言って、拳銃を弄ぶヴィルヘルムを一瞥する。ヴィルヘルムは片肘を付き、窓の外を眺めながら、拳銃をくるくると回している。
「プロアニア国民全員の願いを叶えることが、秩序維持に更なる貢献をするだろう」
国営企業による雇用の再生産を進め、経済的に安定した現在、首都ゲンテンブルクで次に行われたのが、食料の再分配である。飛行船による輸送路の破壊により、食料を輸送することが困難となった。この結果、特に都心部において食料や燃料の価格が倍増し、貧富の差がさらに拡大した。
この問題を解決するために、国王ヴィルヘルムはある規定を立案し、施行させた。高額納税者は、『街路の民衆へ食料を提供することを広く行うよう努める』とするというものである。あくまで努力義務として発表されたものだが、律儀な王国民はこれをよく守り、貧民の健康状態が幾らか改善された。
「貧民の健康状態が改善されたら、貧民を国営企業の労働力として囲い込もう。専門家集団でない国営企業事務員は全て、民間企業への再雇用を強制する。経済状況の改善に合わせて、不足部分を補うこととしよう」
ヴィルヘルムの声はどこか上ずって聞こえた。車内に国威高揚のプロパガンダ音楽が流れ始める。アムンゼンは運転手に耳打ちをし、機器の音量を下げさせた。
「陛下、前線への補給が滞っております。早急に飛行船による奇襲の対策を進めなければなりません」
「君は戦争の専門家だから、そちらが気になるのは無理もないだろう。だが私は、国家全体を動かさなければならないからね。とにかく空中で駆動する乗り物の開発を進めるよう要請はしておくよ」
アムンゼンは窓の外を眺めたままで答える。
「フリッツ閣下にはいささか荷が重いのではないかと」
「彼は意志薄弱だが能力は高い。心配する必要はないんじゃないかな」
ヴィルヘルムは自分の指先を注意深く見つめ、拳銃を仕舞う。鞄から小物入れを取り出すと、中から目の粗い爪磨きを取り出し、爪を磨き始めた。
「進軍状況は?」
「先日、アビスが陥落しました。教皇オルクメステスや聖遺物などは確保できておりません」
「金目の物を回収して逃げたか」
親指の爪を磨き終えると、ヴィルヘルムは息を吹きかけ、二、三度擦る。削りかすが彼の人差し指を白くする。彼は人差し指と親指をティッシュペーパーで拭うと、道具箱から目の細かい爪磨きを取り出し、続けて指を磨き始めた。
「まぁいい。アビスまで落としてしまえばカペル王国は財政破綻したも同然だ。ヴィロング要塞に固めていた主要な戦力も削がれた以上、ペアリス陥落も時間の問題だね。召集令状を増やして面を厚くしよう。占領地への進駐軍はヴィロング要塞から一部を動員して、進軍を続けるように指示してくれ。東部戦線はどうかな?」
アムンゼンは猫背で窓外を覗きながら、抑揚のない声で答える。
「まったくの硬直状態です。戦車の走破力も山岳や森林地帯ではうまく機能しないようですね。あちらも攻め入る様子はありませんから、放置しても特段問題はないでしょう」
民間の工場群からは以前の様に濛々と煙が垂れ流されている。咳き込んで道を急ぐ人々の様子も、恐慌前のゲンテンブルクが取り戻されたようである。
それとも、以前よりも色鮮やかな食材が手に入る国境付近は、格段に生活水準が改善されていると言えるかもしれない。アムンゼンは車窓を流れる景色をぼんやりと見つめつつ、そんなことを考えていた。
「山をひとっ飛びできる兵器があればいいね。やはり、科学省への予算は削れない。道路の改修工事も急がなければならないから、交通省の予算も削れない。となると外務省の予算を割り当てるのが妥当だろうか」
「陛下の仰せのままに。予算内で問題を解決させるようにするのは私の仕事です」
「出来ないと言わないところが、君の美徳だね」
ヴィルヘルムはにやつきながら、アムンゼンに顔を向ける。アムンゼンは静かに頭を下げる。
「国家全体の利益が優先される。それが魅力的なだけですよ」
車は項垂れる人々の姿とすれ違う。瞳に暗い輝きを抱いた老若男女は、今日も工場群へ向かって歩道を進んでいく。