‐‐●1903年春の第一月第三週、カペル王国、アビス3‐‐
戦禍の最前線となった聖都アビスは、強大な敵勢力の攻勢に対し、十分すぎるほどの防衛力を発揮していた。敵の砲撃によって崩落した市壁は多いが、そこを補うマンパワーは強い信仰心と背水の陣を敷く前線の兵士達によって支えられ、敵本陣からの通信の途絶は、オルクメステスの予想通りの打撃を相手に与えた。
頭上を覆う巨大な飛行船から無差別に落とされる鉄球は、戦車で塹壕を突破する現在においては、その殺傷力の高さと攻略の困難性において塹壕を遥かにしのいでいる。戦車の走破能力を妨害する謎の飛翔体もまた、高威力の魔導騎士の魔法に劣らぬ脅威となって、プロアニア軍に混乱を与えていた。
目算以上の防衛力が、プロアニア軍の士気を大いに下げる。砲塔を失い後退する戦車は、時に仲間の歩兵を轢きながら、本陣へと逆走をした。
一方、戦車に守られながら前進する歩兵連隊は、無線機からの連絡が途絶したことに不安を募らせながらも、動きを止める戦車を全員の体重で無理やり前進させていた。
彼らの脳裏には、先刻の息を切らせた連隊長の指示である『アビスを落とせ』という言葉だけが貼りついている。
司令塔が戦線を離脱しているとはいえ、彼らは既にヴィロング要塞という死地を切り抜けており、歴戦の戦士に引けを取らない軍人と化していた。
そして彼らには、既に戦死したかもしれない連隊長に報いるための覚悟が十分にあった。
アビスのなだらかな丘陵地帯は、後退をしようとする戦車を押し戻すのに役立った。どこにあるかもわからない落とし穴も、戦車に踏ませればひとまず被害を抑えられる。上空にある巨大な影はもはや災害と諦めて、歩兵達は穴ぼこの出来た市壁へと真っすぐに突撃する。
かつて背中からしきりに響いた大砲の唸り声は前方から彼らに向かって放たれる。頭上を通り過ぎても続々と降り注ぐ砲火の嵐は、薬漬けで精神を高揚させたあの要塞での恐怖を呼び覚ました。
一人、また一人と、降り注ぐ鉄球の餌食になっていく。
歩兵達は小銃を肩にかけ、顔を真っ赤にしながら、停車する戦車を押す。彼らの横では、後退する味方の戦車に轢かれた犠牲者たちが地面に血糊を広げて倒れこんでいる。
「西には楽園があるぞ!西には楽園がある!」
「俺たちはこれ以上、飢えに苦しみたくないんだよ!」
「家族が餓死するぐらいなら、この場所で死んでやる!」
歩兵達は殆ど悲鳴のような叫び声をあげ、戦車を前へ前へと押し進める。砲塔が破壊された戦車の上から怒号が響き、鼓笛隊の持つ無線機を通して、騎兵連隊の本陣から混乱の声が辺りに響いている。
ひっきりなしに響く火砲の発射音、降り注ぐ矢の雨、鉄球の礫、時折顔に当たる異常な速度の丸めた紙束。歩兵連隊の面々は、仲間が倒れていくたびに、声を上げて叫んだ。
「前へ、前へ進め!」
「次の飢饉はいつ起こる!?そんなの分からないだろう!」
「アビスを落とせ、枯花に負けるな!」
アビスの市壁が目前に迫ると、バリケードの中に隠れた義勇軍たちが戦車目掛けて突撃を始める。歩兵は戦車に飛び乗ると、義勇兵目掛けて小銃を乱射した。
「爆弾投げるぞ!」
連隊の擲弾兵が背後から叫ぶ。市壁の裏から降り注ぐ巨石は、ブリュージュ攻略戦の苦い記憶と重なった。
擲弾兵の投げた手榴弾は、バリケードの内部に落ちる。直後、それは炸裂し、バリケード諸共敵を吹き飛ばした。
「機関銃の支度が出来たぞ!後ろは任せて突撃しろ!」
擲弾兵達は戦車の脇から顔を出し、顔を出す敵に発砲する。懐かしい連射音を背中で受け止め、歩兵達は戦車から飛び降り突撃する。
『ああもうわかった突撃だ!騎兵隊もそいつらに続け!』
鼓笛隊の肩で空気が振動する。指示を受け、太鼓が激しく打ち鳴らされる。高鳴るファンファーレを受けて、終に戦車は加速を始めた。
アビスの市壁前方に張り巡らせたバリケードと、拒馬を押し込み、粉砕し、戦車は前へ、前へと進む。砲弾が仲間を押し潰そうとも、一度受けた指示だけは絶対に逆らえない。亀の歩みの要塞が、遂に遥かな市壁の前まで接近を果たした。
「僧兵達が斃れましたか……」
その異変に、オルクメステスは即座に危機を理解した。敵の動きが変わったのである。彼は静かに目を閉じ、哀悼の祈りを捧げる。既に敗走の準備も整っていた。
「全市民に告ぐ!アビスの壁は倒壊するでしょう!武器を手に持ち戦いなさい!貴方達の救済は、私が保証いたします!」
崩れた瓦礫をプロアニア兵が這いあがって来る。ぼろぼろの彼を取り囲み、市民はもてる様々な武器で侵略者を叩きのめした。崩れた市壁にできた人集りは肉壁となり、侵入を試みる敵の弾丸を受け止める。侵略者に応報を齎すのは、市壁の上や裏に置かれる攻城兵器と大砲である。
亀の歩みの戦車が瓦礫を這い上がって来る。
「愚か、愚か!距離を詰めれば我らの領域!精々神に許しを請うことです!」
オルクメステスは錫杖を振るう。戦車のキャタピラに茨が生え、瓦礫と絡まって動きを止めた。茨は瞬く間に戦車に絡まり、巨大で不気味な花を咲かせる。一連の動作はマルタンの見えない壁と異なり、時には蔦を引きちぎって走破が可能であったが、多くの戦車が瓦礫の上で歩みを止めた。
「小賢しい鼠がちょこまかと……。人の壁を補充できないなら、アビスに火を放ちます!皆の篤信を見せて下さい!」
オルクメステスの怒号を受けて、乞食や、司祭が市壁のあった場所に立ちふさがる。丸腰の敵に小銃を構え、歩兵は突撃を続けた。
続々と、兵士が茨に足をとられる。動きを止めた敵に対して、市民は一切の容赦をしない。
殴打される仲間を尻目に、歩兵達が銃を放って突撃を続ける。擲弾兵達は義勇兵を、歩兵は市民の壁をそれぞれ攻撃し続けた。
遂に飛行船が市街地を含めた無差別な擲弾を開始する。時には自らの都市を破壊しながら、彼らは続々と市壁を突破する仇敵に鉄球を放った。
アビスの大聖堂が夕刻を告げる鐘を鳴らす。オルクメステスの震える右手が、ついに錫杖を落とした。
「……もはやこれまで。火を点けて退きますよ。私の体がもたない」
オルクメステスが白目を剥いて頭から倒れる。茨の罠が突如なくなり、市民の壁は榴弾と弾幕の礫に倒れていく。司祭たちは倒れたオルクメステスを御用馬車へと引き上げる。白馬の嘶きと共に、アビスの領主はペアリスへ向けて後退を開始した。
不滅の炎が突如としてその勢いを強める。聖堂の鍵が開き、負傷兵たちに肩を貸した司祭たちが市街へとなだれ込む。不滅の炎は鐘楼を飲み込み、やがて市を焼き尽くす業火となって、地上を『地底』色に染め上げた。