‐‐●1903年春の第一月第三週、カペル王国、アビス2‐‐
オルクメステスの知見によれば、プロアニア最大の脅威はその兵器ではなく統率の取れた軍隊の方にある。
統率の取れた軍隊が強力なことは言うまでもないが、プロアニアの軍隊はその脆弱さも統率力の高さにある。
何故なら、前線の兵士は殆どが一般国民から徴兵された素人であり、独自に戦況を判断し、適切な応用を利かせることの出来る専門家ではないからだ。彼らは専門家の指示を忠実に受け取ることで最高の仕事をこなし、優れた装備を使いこなして専門家以上の強力な力を発揮する。
この点はまさに、カペル王国と真逆の方針をとっていると言える。
僧兵達に担わせたのは、軍備拡張のための時間稼ぎと、アビスが攻勢をかけられた際に司令塔である本陣を攻める、『指揮命令系統の攪乱』作戦のためである。その為には、草原に潜ませた戦力を温存しつつ、敵本陣の攻撃を出来るだけアビス自体に向けなければならなかった。
その点、彼らが夜にアビス近辺へ到着したのは幸運であったと言える。市壁周辺の篝火の数を増やせば、布陣の強力さを演出することが出来る。慎重かつ堅実な戦争の専門家であれば、僧兵のゲリラ的な襲撃を警戒して布陣を固めつつも、敵陣営への攻撃力を高めるように兵を進めるべきであろう。その点について、プロアニアの碩学は賢明で信頼に値した。結果的に、敵は本陣の守りを薄くして、王の詔に従って強大な軍団を差し向けてきたのである。
もちろん、その好機を逃すようであれば、彼も命がけの出征を僧兵に依頼したりはしない。
現に今丘を下る彼らは、現在本陣から指示を仰ぐことが困難になっている。戦車の速度は落ち、歩兵と鼓笛隊たちは顔を見合わせて困惑している。オルクメステスは鐘楼の上から前線の様子を確かめつつ、速度を緩める敵陣営の様子を、固唾を飲んで見守った。
「猊下。僧兵達が本陣への攻撃を開始したそうです」
司祭の一人が鐘楼を昇ってくる。燃え盛る炎は未だ消える素振りを見せない。
「そのようですね。神が我らをお救い下さいますよう」
オルクメステスは静かにこめかみを抑える。手に持ったままの錫杖は、不滅の炎の灯りを受けて僅かに赤く発光して見えた。
「市内はどうですか。混乱は起こっておりませんか?」
「えぇ、今のところは。とはいえ、あの乗り物がどれほどの威力なのか……。それによっては時間の問題かと」
オルクメステスは錫杖を振るう。仄かに薔薇水の香りが周囲に漂い始めた。
「その時はこの都市ごと焼き払えばよろしい。大聖堂の至宝は積み終えましたか」
「すでに首都に向けて出発しております」
一陣の風が吹き抜け、教皇宮殿から飛行船が全基出航する。巨大な影は都市の上を過ぎゆき、丘を下る戦車目掛けて直進を始める。
「よろしい。これで心置きなく戦うことが出来ますね」
オルクメステスは錫杖を振るって薔薇水の香りをばら撒くと、長い僧衣を引き摺りながら踵を返す。司祭は彼に恭しい礼をすると、不滅の炎の番を入れ替わった。
鐘楼を降りるための梯子は非常に長く、オルクメステスは長い僧衣で足がもつれないように一歩ずつ確実に階段を下る。鐘楼の内壁は石積みにモルタルを塗った古い代物で、見栄えはしないが頑丈そのものであった。
「果たしてこの足止めがどの程度有効に作用しますでしょうか」
彼の独り言に返す者はいない。その声は、鐘楼の暗い梯子の中に、こだまして響く。それに続くのは、梯子に足をかける断続的な音だけだ。
梯子も半ばほどまで降りたころ、市壁の向こう側では激しい地鳴りが起こった。地鳴りは背の高い鐘楼には周囲よりわずかに増幅して届き、市井の人々よりも敏感に揺れを感じることが出来た。
間近で何か地盤が落ちたようなその音に、オルクメステスは決戦の始まりを悟った。
戦車とそれに続く歩兵達が、落とし穴に落ち、一部は串刺しにされたのであろう。それは丘陵の底部にある、アビスの市壁の射程圏内に敵が侵入したことを意味する。彼は地面に降り立ち、こすれた僧衣の汚れを叩く。埃が周囲に広がり、一つ咳き込んだ。
彼は錫杖を振るって薔薇水の香りを放ちながら、祝詞を唱えて市街へと乗り出した。
市街は閑散として静まり返っており、巨大なダンドロ銀行の荷馬車さえも最後の荷造りを終えて今まさに丘を駆け上がろうとしていた。
乞食は静かに大聖堂の壁面に身を寄せて震えており、彼はそれを一瞥して錫杖を振るう。カペラの恵み深き薔薇水の香りが、乞食らの細い体躯が震えるのを止めた。
彼は祈りの口上を唱え終えると、フォルカヌスの讃美歌を口ずさむ。運命の車輪が今まさに上るところであると、彼らを勇気づけるためであった。
市壁の上には煙が立ち込めている。エストーラ経由で導入された火砲はカペル王国では最新の兵器であり、射程から巨大な弾丸を放つ敵の戦車を破壊できる唯一の『火器』であった。
執拗な集中砲火を浴びせる火砲も、吹き荒ぶ風や不意の挙動によって、戦車に直撃するのは叶わない。歩兵を数名撃退したらしいが、それを確認する術も彼にはなかった。
道すがら、市街の丘を転がっていくごみを一つ拾い上げる。教会への皮肉を書いた時代遅れの広告であった。彼はそれに錫杖を当てつつフォルカヌスの歌を唱え続け、市壁に向かって放る。広告は高速で空に浮かび上がり、やがて迫り来る戦車の群れへと突撃する。紙切れが砲口に入り込んだ戦車は、弾丸を暴発させて砲台を大破させた。
市壁の向こうにあるはずの激しい戦闘を思いながら、彼は悪意に満ちた文句の記されたゴミを拾いあげては同じように敵地へ放つ。祈りの歌は二回目に入っており、音階は僅かに低くなっていた。
飛行船が敵へと砲弾を落とす様が見切れて彼の視界に入る。彼は一度足を止め、空を飛ぶ鯨の勇士を静かに見上げる。
「守りは盤石でなくてはならぬ。そうでなくては何も守れぬ」
彼はぽつりと呟く。プロアニアの人海戦術は、守りも補給もかなぐり捨てた乱暴なものであったから、オルクメステスはこの戦いで敵を堰き止められると確信した。
祈りの歌は再び続けられる。武器を持たないオルクメステスが振るうのは、薔薇水を振り撒く恵みの錫杖ただ一つであった。