‐‐●1903年、春の第一月第二週、カペル王国、アビス、決戦前夜2‐‐
野営地の夜は静けさに包まれた。水でこねた小麦を平たく伸ばして焼いただけの簡素な食べ物が、歩兵連隊たちにこの世の天国を噛み締めさせた。明日に備えて眠りにつくものが現れる中、野営地に設けた小さな本陣の中には、煌々とランプの灯りが灯っていた。
「早く休めよ。明日は決戦だ」
連隊長は長机に座っている青年兵に声をかける。彼は物静かで生真面目な、プロアニア人らしい人物である。
振り返った彼の初々しい表情は、まだ成年に満たないことを示している。
「連隊長、マリー様は?」
連隊長は苦い表情を浮かべ、それを抑え込むように口角を持ち上げなおした。
「彼女は夜の仕事だ。皆が求めている」
青年はきょとんとして連隊長を見つめ、暫くして「そうですか……」と答えた。
連隊長はなぜか気恥ずかしくなり、小さな咳払いをする。青年は変わらず、気の抜けた表情で彼を見つめている。
ランプの灯りは脆弱であり、青年の手元だけを照らす。連隊長が覗き込むと、そこには一冊の書籍があった。
読書……。カペル王国やエストーラでは、それは一握りの知識人の趣味であった。プロアニアでは学生や小僧が専門書を読む。それが出来なければ生き抜くのが困難なほど、労働も生活も分業化が進んでいた。
彼が読んでいる本は、赤茶けた紙の色から年季のかかったものであることが分かる。表面は乾燥し、握ればパラパラと崩れてしまいそうだ。
「何を読んでいるんだ?」
「『モンド・ルーナス』ですよ」
青年は僅かに頬を赤らめて言う。彼はそっと本を持ち上げ、連隊長に表紙を見せる。そこには月と星空の版画が印刷され、プロアニアとは異なる言語で作者と表紙が記されている。しかし、一般常識にうるさい成人ならば、その作者の名は誰しもが知っていた。
「ユウキタクマ博士か。こんな時でも勉強するのは偉いな」
「連隊長はお優しいのですね。軍部の人は、これを読んでいると怒るんです」
青年は静かに本を撫でる。赤茶けた紙面が、ランプの灯りでさらに濃い紅色に染まっている。
連隊長は彼の隣に腰かける。しばらく沈黙した後で、彼は言葉を選ぶように続けた。
「軍部では実直で屈強な男が持て囃される。それが全てでは無いとしても……そうでなければまるで悪かのように言われる。君が悪いのではないよ」
青年は眉を顰め、静かに俯いた。照り付ける灯りが彼の赤い頬を照らす。長机の上に開かれた本には、ある学者の月に関する考察が記されている。
「戦争は僕から学問を奪おうとする。連隊長は、ユウキタクマ博士については、どう思われますか?」
「その人のことはあまりよく知らないが、偉大な人物と聞いている。プロアニアの技術者も舌を巻く博学さだ」
連隊長の言葉を受け、青年は自嘲気味に笑い、そっと紙面を撫でる。
「博士は前の生で虐められていたそうです。そして、こちらでは乞食から始まり、天文学者になった。偉大だと言われる博士が言うんです。広い宇宙の、『その中で揺蕩う小さな天の屑を、僕は拾ったに過ぎない』と」
本陣の頭上は白い天幕で覆われている。小さなテントの向こう側には、プロアニアでは見られない信じられない数の星々が瞬いている。
青年は連隊長に向き直った。諦めたような、物憂げな笑顔である。
「博士は、学生達に向けて、君たちの研究や師の研究は無駄じゃないと続けます。それが仮に間違いであったとしても、それは続く人々を導く杭となる。そう言うんです」
沈黙が流れる。本陣の出入り口には、アビスの巨大な市壁がある。その鐘楼が、かつて博士が解き明かした法則の数々を背負っていた。
「博士の言葉が好きです。僕たちの小さな歩みが、未来へ続いていくと肯定してくれるから。今役に立つ事実にだけ価値がある。祖国のそんな考えに、圧し潰されそうになるんです」
連隊長は言葉を詰まらせた。その場にある小麦を手に入れて浮かれる戦友たち、未来のためにとヴィロング要塞の平原に横たわった戦友たち。今ある祖国の誇りと尊厳をかけた、無謀とも思われた挑戦。それが、一人の若い青年の、未来を奪い取っていく。
青年は本を閉ざす。彼の背中を押してくれる大切な本を。
「明日は決戦ですよね。早く寝なくちゃ」
ヨダカの不格好な鳴き声が、本陣の上を通り過ぎていく。
彼は本陣を後にする。入り口で一度、さざめく星の海を見上げて、やがて煙のように消えていった。