表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1896年
14/361

‐‐1896年夏の第一月第二週、エストーラ、ノースタット4‐‐

 帝国の主要産業の一つが、観光業でございます。これは、歴史ある我が国の都市や、最新の娯楽としてのオペラ劇場、オーケストラなどの宮廷音楽が、我が国で独自に発展したためでございます。陛下はリング・シュトラーセを開通させる際に、これらの主要産業がもたらす収益のほうが、軍事的な拡張よりもより民の幸福に資すると考えておられました。

 この考えに賛同し、陛下還暦の祝いとして道路の開通に尽力したのが、観光大臣であらせられるフッサレル様でございます。観光大臣は、帝国の交通網の整備、帝国全体への情報伝達の一切を管理する重要な職務であり、フッサレル様は、これらを観光業の一助として活用するために長らく奮闘されておられます。


 陛下の麦粥を運ぶ間に、廊下ですれ違ったフッサレル様はひどく苛立った様子で、普段ならば互いにするような簡単な挨拶にも応じられませんでした。

 飢饉が齎した経済的な危機は、観光業への大きな打撃として押し寄せてきました。陛下も普段であれば臣民への娯楽として舞台座の公演を支援されておりましたが、それもこの飢饉に伴い断念せざるを得ず、観光省の予算も削減せざるを得なかったのです。こうして、フッサレル様は最近苛立ちを隠せない様子で、先程のように、会議でも激昂される姿が見られるようになったのです。


 執務室の扉にノックをすると、陛下は既に政務に戻られており、「入り給え」というくぐもった声が響きました。


「お食事をお持ちいたしました」


 扉を開くと、陛下はいつものように流暢な筆運びで、カペル王国への親書を認めておられました。


「ありがとう。すまないね」


 陛下は静かにペンを置き、部屋の中央にある小さなテーブルへと移動します。私が陛下に麦粥を配膳すると、陛下のお腹がちいさく鳴りました。陛下は腹を摩り、自嘲気味にお笑いになります。


「はしたないね」


「いいえ、陛下のご尽力の賜物です」


 陛下は自ら配膳台に乗るもう一つの麦粥を私に配膳されます。慌てて止めようとしたものの、陛下は首を横に振り、丁寧に、私の前にそれを置かれました。


「君と話をするとき、私の心は救われるから。どうか、受け取ってはくれないか」


 麦粥は静かに揺れながら、かすかに湯気を立てています。陛下は穏やかな表情で、私の答えを待っておられます。貧困にあえぐ窓外の街路には、配給された食料を一杯に抱えた子供たちが満面の笑みで帰路に着く姿がありました。


「畏れながら、お供させていただきます」


 昼下がりの道に、子供たちの甲高い声が響きます。陛下は天井を見上げ、静かに手を合わせました。


「精悍なる聖オリエタスよ、汝より授かりし恵みある大地の子らに、賛美を捧げよう。親愛なるエストーラの大地よ、その稲穂を伸ばし、天上の聖オリエタスに向け、我らの祈りを届けたまえ」


 それは、食事の儀の際に、宮廷で歴代の大公がとなえることになっている文句でした。私は、陛下に続いて静かに手を合わせます。黙とうの後、陛下はスプーンを手に取り、麦粥を掬い上げます。白濁した麦粥は降り注ぐ昼下がりの日差しを受けながら、目一杯に輝いております。陛下は静かにこれを口に運ぶと、ゆっくりと咀嚼されます。それはまるで、最高級の料理の味を、体の中に刻み込むようでありました。


「あぁ、美味しい。私は、とても恵まれている」


 嚥下をすると、陛下は恍惚とした表情で呟きます。そのほころんだ表情を確かめた後、私は、一層奥深い味わいを得た麦粥を口に運びます。

 麦のほのかな甘み以外には何もない、シンプルで繊細な味。素材そのものは平凡な燕麦ながら、その一さじには一皿分の至福が詰まっておりました。


「陛下。あまり無理をなさらないでくださいね。こうして、麦粥を食うのがどれほど幸福なことかご存じならば、国家元首が幸福であることが、どれほどの幸福かを考えて下さいませ」


 陛下は再びひとさじを口に運び、恍惚とした様子で咀嚼をします。一口を運ぶたびに、陛下の泣きそうな表情が緩んでいくかのようでした。


「その通りだ。私は……フッサレル君にも臣民にも、酷いことをしてしまったように思う」


「そんなことは断じて御座いません。皆、陛下とお気持ちは同じなのです。ご覧ください、子供たちが配給品を運ぶ、あの笑顔を」


 私は窓の外を指さします。陛下は指の先を見つめ、目を潤ませながら答えます。


「そうか……。私は、この国の一員として生きられることが嬉しい。だからこそ……また彼らとともに、舞台座へ足を運びたいものだ」


 一口ごとに、口いっぱいに広がる幸福を噛み締めます。物憂い執務室の窓枠には、私達の誇るものすべてが広がっておりました。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ