‐‐●1903年春の第一月第二週、カペル王国、ヴィロング要塞‐アビス2‐‐
浮かない表情の戦友たちが、焚火を囲んで溜息を零した。
連隊長は炊事係か作った出来合いのスープを両手で持ちながら、項垂れる戦友に向けて言った。
「力不足で、申し訳ない」
長い行軍で、連隊長の軍服は随分とくたびれている。所々がほつれて糸が飛び出し、ブーツの踵は酷くすり減っていた。
「隊長のせいじゃありませんよ。くそ、姑息な羊どもめ……」
怒りを抑えた悲しげな声であった。
野営地には虫の鳴く声が響いている。時折草原を撫でる風さえも、戦友たちを震え上がらせた。
連隊長はスープの中を覗き込む。プロアニアでは見られない満天の星空の中に、浮かない表情の男の姿がある。
「悔しいが、彼らに奇襲戦をさせるとこちらに分が悪すぎる。行軍を急がなければ勝てない」
今日のスープは騒動のせいで昨夜の魚の骨で取った出汁の中に、取り急ぎ栄養を取るために収穫した野草の類だけが浮かぶ質素な代物であった。
「開けた場所でなら勝っていました。必ず人質を救いましょう」
「……そうだな」
連隊長はカップを持ち替える。静けさの中で動物が草を掻き分けるたびに、場に張り詰めた緊張が走った。
‐‐騎兵と歩兵の足並みが揃っていない‐‐
戦車が独自に進軍を進めなければ、足を止めた歩兵が包囲され、人質が攫われることはなかった。ヴィロング要塞の一件もそうである。一か所でも見えない壁を倒壊させれば、被害は最小限に抑えられたかもしれない。
騎兵部隊の傲慢さにその責を負わせることも出来るだろうが、プロアニア本国の命令に沿っているのはむしろ攻撃戦を推し進める騎兵部隊の方である。歩兵部隊の犠牲は甚大だが、それが規律を破ってよい理由にもならなかった。
口の中に嫌な苦みが広がり始める。乾いた唇を濡らしながらスープを流し込んだ。久しぶりの戦闘に、炊事係も料理の味を確かめるどころではなかったようで、殆ど野草の苦み以外は感じられない。味気ないスープが口の中にあった嫌な味を伴って、胃へと滑り込んでいく。彼は思わず小さくげっぷをした。
彼は静かに明るい空を見上げる。星々は自由気ままに空を漂っているように思われた。一羽の鳥の影が星月夜の中を飛び去っていく。空から彼の足元に降ってきた暗褐色の羽根は、ごわごわとして酷く肌触りが悪そうに見えた。
「ヨダカだ……」
飛び去った鳥を見送り、彼は広大な草原地帯に視線を落とす。河川敷に点在する水車小屋は、何人かの兵士が身を隠すには丁度いい大きさであった。
「隊長……?大丈夫ですか?」
カペル王国軍の忍耐力は、連隊長の理解の範疇を越えていた。背後から銃口を突き付けられているのでもないだろうに、彼らは勇敢に近代兵器で武装した自分たちに対峙する。名も知らぬヴィロング要塞の主人もそうだ。
死や恐怖を超越した秩序を彼らも持っていると認めざるを得なかった。しかし、彼らは自由で豊かな表情を持つ。プロアニアの分厚い煤煙よりも広い視野を持っているように思えた。
連隊長はスープカップを強く握りしめる。ぎりりと、歯ぎしりの音が響いた。
‐‐気持ちが悪い‐‐
王を中心とした横暴な支配、見下げ果てるほどに遅れた技術、法律に唾を吐く民衆、罰則を温情で緩める不徹底ぶり。それにも関わらず、自分達よりも深い愛国心と帰属意識があるカペル王国民は、彼に恐怖すら感じさせた。それは自分とは全く異なった生物のようであり、いっそ殺してしまっても害のないものかもしれないとさえ思えた。
「もし叶うなら、あの火砲で、水車小屋を撃ち壊したいとさえ思う」
規律を守るならば、今は勤務時間外である。緊急事態でなければ、事後報告で動くことは許されていなかった。
「はい。明日、撃ち壊しましょう!」
連隊長は自嘲気味に笑う。それにつられて、彼の戦友も笑顔を見せた。二人で温かいスープを飲む。バチバチと焚火の弾ける音がする。見張りの兵士が草むらの動くものを撃つ。彼らは近づいて、図らずも手に入れた兎の肉に目を輝かせた。
「非番の時はしっかり休めよ。それも規則で、仕事だからな」
連隊長はそう言って、収穫に喜ぶ見張りの兵士達を注意しに向かう。立派な兎は明日の昼食に丁度良いサイズで、彼は戦友と共に血抜きを始めた。
周囲に肉目当ての仲間たちが集ってくる。腹を壊さないようにもう食べてしまおうとか、綺麗に切り分けてスープに入れるのが楽しみだなどと、浮かれ切った様子で目を輝かせていた。
血抜きを終えた見張りは、収穫物を連隊長に預けると、再び任務に戻っていく。星の大小問わずに燦然と瞬く星月夜が、彼らを静かに見守っていた。