‐‐●1903年春の第一月第二週、カペル王国、ヴィロング要塞‐アビス1‐‐
水車小屋と河川、遥かに広がる草原の道が続く。戦車は前方を塞ぎながら歩兵達の安全を確保し、地平線は緩やかな丘陵の為に盛り上がっている。軍隊式の規則正しい生活と山菜や清流に恵まれたカペル王国の自然環境のお陰で、歩兵部隊の健康状態は回復傾向にあった。彼らも行軍の中で自生する植物の知識を習得し、不完全ながら採集の精度も上がった。不幸な事故は徐々に起こらなくなり、垢の鎧を纏った蒼白の顔には、僅かに血色が戻っていた。
順序良く整列された行軍は順調に進められ、鼓笛隊もドラムを叩かずに歩兵の後ろに続く。動物たちが草木を掻き分け、春の爽やかな風が彼らの間を通り抜けていく。カペル王国では、喘息の心配もなかった。
心身ともに余裕を得た歩兵部隊であったが、歩兵連隊長は装備が不十分であることを心配していた。
ヴィロング要塞の戦いは弾丸と爆弾の消耗が激しく、弾薬の尽きた高射砲も占領した要塞に置いていかなければならなかった。
火薬や鉄鋼などは、アビスへ向かう道中ではあまり採れない。後方では今もカペルの鯨が破壊活動を行っており、装備の補給は食料同様に滞っていた。
歩兵連隊長の不安をよそに、のどかな田舎の散策を楽しむ一行は、動物たちが草を掻き分ける音を聞いた。彼らの耳にはよく馴染んだ音であったため、行軍は問題なく進められる。休憩時間まではまだ数時間あった。
「胸騒ぎがする」
「奇遇ですね、私もです」
連隊長のつぶやきに、マリーが答える。動物が草を掻き分ける音が、これまでに比べて非常に多く感じられた。
彼は一旦立ち止まり、それに伴って歩兵部隊が歩みを止める。無防備で間の抜けた表情の戦友たちは、難しい表情をした連隊長を不思議そうに見つめている。
「動物たちが騒がしい。少し見てきてくれないか?」
そう言うと、末端の兵士が数名、草を掻き分けて様子を伺う。戦車と歩兵部隊に僅かな隙間ができる。
連隊長が武器を構えると、歩兵達もそれに倣った。やがて、草原の中から先程の兵士の悲鳴が響く。彼らが一斉に悲鳴の方向に視線を送ると、何者かが草原の中から手を伸ばし、兵士を鷲掴みにして草原の中へ引きずり込む。何名もの悲鳴が背後から響き、歩兵部隊は開けた道の中央に集まって銃口を向けた。発砲よりも早く、鈍い打撃音が背の高い草の間から響き渡る。道路に血飛沫が飛び散り、鮮血の上に攫われた兵士が倒れこむ。
「総員攻撃!何かいるぞ!」
「数からして狼の群れか!?」
兵士達は草原に銃口を向けたまま我武者羅に引き金を引く。幾つかの弾丸がその生き物に命中したのか、背の高い草の中から血が噴き出された。
「いや……これは……」
草原の隙間から生物が倒れこむ。それは、戦闘用の鎧を身に纏った剃髪の男であった。
「人間だ」
草原の中から戦棍や三叉戟、長槍や棍を持つ剃髪の僧兵達が現れ、即座に歩兵達を囲い込む。
兵士達が銃口を向けるか否かの刹那に、外周の兵士達が長い手に絡めとられて首筋に柄物を押し付けられる。
それは目にも止まらないほどの速さであった。素人集団のプロアニア兵が、即座に反応などできようもない。
「人質とは卑怯な」
震えた声で若い兵士が叫ぶ。僧兵の一人が人質の喉を矛先で押さえつけながら、冷ややかな眼差しを兵士に向けた。
「卑怯というならばその飛び道具を捨ててかかってきなさい。我々は神に誓って、恥ずべき事などしていません」
『連隊長殿、何が起きた?』
連隊長が装備した無線機から声が漏れる。異変に気付いた戦車部隊は遥か前方に進軍していた。
「アビスの尖兵と思われる敵と遭遇した。至急応援を願いたい」
無線機の電源がつくと、小さな溜息の後、鬱陶しそうに応答が帰って来る。
『了解した。至急そちらに戻る』
暫くして、前方の戦車が方向転換を始める。歩兵達の手に脂汗が滲んだ。銃口は正しく僧兵の脳天を狙っていた。
無限軌道が地面を擦り、土埃を上げながら後退を始める。僧兵達は互いに目配せをする。人質を盾にしたままで、彼らは素早く草原の中に飛び入ってしまった。
「待て、卑怯者!」
銃口が僅かにぶれる。草を掻き分ける音が激しく響きながら遠ざかっていく。
『なんだ、何もいないじゃないか』
「貴方達に恐れをなして草原の中に身を隠したようです」
無線機ごしに、騎兵隊たちが笑う声が響く。戦友の一人が拳を振るって苛立ちを露わにした。
道の中心には、人質の靴が一つ転がっていた。