‐‐1903年春の第一月第二週、カペル王国、アビス、アビス大聖堂‐‐
アビス防衛戦はヴィロング要塞防衛戦の際とは全く勝手が異なる。ヴィロング要塞は国境付近での戦闘を意図した、戦争に特化した要塞だが、アビスは宗教都市であり、交易都市である。防衛戦に必要な守りも初めから整っているわけではなく、先ずは進軍を遅らせることが急務であった。
オルクメステスの仕事は、信仰の柱として都市の混乱を避けることと、カペル王国軍の主力部隊がアビスへ到着するまでの時間を稼ぐことである。続々と到着する先遣部隊に要塞の構築を任せつつ、彼は戦闘の中心を水車小屋の建ち並ぶ河川沿いの平原に定めた。
大聖堂の前に集った僧兵達に薔薇水の魔法を嗅がせ終えると、今度は僧兵達に具体的な作戦を告げるべく、彼らに大聖堂への入場を許可した。
ぞろぞろと剃髪の男たちが祭壇の前に集う。高い天井に広がる色褪せた青は、プロアニアが手を伸ばすことが叶わない彼らの希望を示唆しているように思われた。銀製で放射状の太陽が、神の倉である大聖堂に小宇宙を作り上げている。
僧兵達は、祭壇の上に掲げられた巨大なトパーズを直視して、教皇の登壇を待つ。顔のない立像と美しい女神カペラの像の間に登壇したオルクメステスは、厳かな雰囲気で身を翻し、聖典に手を乗せてこめかみを抑える。数秒の静寂の後、オルクメステスは静かに説教台に手を添えて、粛々と話し始めた。
「アビスの防衛は非常に困難を極めるでしょう。国王陛下によれば、主より祝福された歴戦の勇士たちがこの場所に集います。彼らの到着まで都市を守るためには、先遣隊による市壁と防壁の強化だけでは不十分です。貴方達の魂を救うことを条件に、貴方達へアビスの侵攻部隊に圧力をかけることをお願いしたいのです」
屈強な僧兵の間でざわめきが起こる。オルクメステスは錫杖に手を添えながら、咳払いをした。
長い沈黙が続く。人間たちを試すように見おろす二柱を背にして、教皇は俯きながら続けた。
「私は貴方達に残酷な宣告をしなければなりません。貴方達の敬虔に対して私が報いられるのは、主に大いなる導きを乞うことだけです。ですが、アビスという町が我が国にとってどのような町であるのか、胸に手を当てて考えて下さい。貴方の誇り、尊厳が、どこで育まれたのか。貴方に宿る信仰の光が、どこで生じたのか」
オルクメステスの言葉は反論の余地を許さないものであった。神への敬虔を約束し、その恩恵に与ってきた僧兵が、アビス大聖堂の炎を消すことは許されない事であった。
「貴方達に後退は許されません。ここで逃れ、地獄で永遠の責め苦を受けるくらいならば、何をなすべきかを貴方達ならわかっているはずです」
そこには賛同の声も拒絶の声もなかった。そうしなければ彼らの心の底にある『信仰の光』が奪われてしまう。そうするのが当然であり、そうすれば彼らは肉体からは離脱しても、魂は救われる。
オルクメステスは錫杖を持ち上げ、説教台の中心に垂直に立てる。彼が祈りの口上を唱えると、僧兵達の口から同じ言葉が繰り返される。口を閉ざしたままの僧兵達は、突然震えだし、耳を抑えて唸り始めた。膝から崩れ落ちた数名の敬虔でない者たちが、司祭に手を貸されて施療院へと向かっていく。罪人を洗い出す激しい耳鳴りに身を震わせながら、唸る僧兵達は神を礼賛する言葉を掻き分けて鉄扉へと逃れていく。
聖堂は言葉に溢れ、その声は天界の民と銀の太陽が照らす天蓋まで隈なく響いた。二柱の神が満足げに聖堂を見おろす。
剃髪が並んだ席に向けてオルクメステスの持つ錫杖が傾けられた。それから徐々に、僧兵が早口になっていく。礼賛の詩はやがて僧兵達の舌が滑るほどの速度で唱えられるようになる。
途中で唱えるのをやめたオルクメステスは、施療院へ運ばれていく僧兵が全員退席するのを待って、錫杖をゆっくりと机上に倒す。
オルクメステスが錫杖を下ろしきると、僧兵達の口は同じように閉ざされた。錫杖は説教台の脇に改めて置かれ、再び大聖堂に静寂が訪れた。
「では、皆様の魂がこの場所に帰ることを、私は切に願っております」
機械時計を擁する鐘楼が、アビスの街に鐘の音を響かせる。鐘の音は、プロアニア兵の行軍が始まる時間を告げていた。