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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1903年
135/361

‐‐1903年春の第一月第二週、カペル王国、アビス、教皇宮殿1‐‐

 荘厳な鐘の音が、教皇宮殿一帯を包み込む。高らかな鐘の音の最後の音に合わせて、オルクメステスは祈りの口上を唱えた。


 きめ細やかな白と繊細な銀細工は衰退の兆しさえ見せず、アビスに恒久の祈りが続くことを示しているようにさえ思える。通常より広い狭間から影が射しこもうとも、それが飛行船のそれである限り、安らかな祈りの時を邪魔するものではない。


 揺れる燭台の灯が、祭壇のカペラを浮かび上がらせる。カペラは口角を僅かに持ち上げ、煽情的なくびれを見せつけながら、一枚の大きな布を体に巻き付けている。艶のある石材も手伝って、その美しさは男たちの邪な祈り、豊穣の祈りさえ満たしてくれるようだ。


 重量感のある僧衣を纏ったオルクメステスは、一心不乱に祝詞を唱えた。曰く、カペラの花冠に奉ずるカペル王国に祝福あれと。真摯な祈りを足元に受けながらも、カペラは中空を見つめて微笑むばかりである。


 腰の曲がった現教皇がおずおずと立ち上がる。彼は手を合わせたままで、女神の高い鼻先を見上げた。


 教皇宮殿の神像は、如何なるものも神の前では矮小であるとかつての人々に思わせた。しかし、空を飛ぶ鯨がアビスから旅立つようになってからは、単に淫らな裸婦の彫像のように思われた。そして、ヴィロング要塞の陥落を聞き、オルクメステスも宮殿の祈りの間に籠り、この淫らな女性に額をつく虚しさを噛み締めた。


 僧兵が一人、また一人と脱走を試みている。オルクメステスはその一派を捕らえて、アビスの広場にその首を晒した。

 彼はこめかみを抑える祈りの仕草をする。あるいは、それは実際に痛かったのかも知れなかった。これ以上の脱走兵を出せば、アビスの守りは薄くなってしまう。ヴィロング要塞から生還した戦士たちの言によれば、戦車を破壊できるのはそれこそ魔術師ぐらいなものである。彼は使い物にならない要塞の戦士たちを教会の鉄扉にひとまず押し込んだが、僧兵の脱走を止める肉壁にもなりはしない。カペラは涼しい顔をして、彼らを逃してしまう。


 燭台に灯した火を一つずつ消していく。蝋のかすで汚れた皿を拭い取りながら、神に背を向けないように横歩きをする。火が一つ消えるたびに、祈りの間から銀細工の輝きが削がれ、女神の微笑みに影が射していく。彼は火を消しきったところで一度女神の様子を窺う。僅かに口角が上がっただけの像は、鼻より上に影をかけ、責めるように彼を見おろしていた。


「虚飾とはそれほどに罪深いものだろうか」


 思わず零れた言葉に、彼は青ざめる。仮にも聖職者である彼が、虚飾の罪に疑問を投げかけるなどあってはならない。恐る恐る後ずさると、女神は口元だけを持ち上げながら、細い目で彼を見おろしているように見えた。彼は祈りの間を飛び出すと、荒い呼吸を整え、執務室までの道を早歩きで進んだ。


 ヴィロング要塞の運命の日以来、アビスの人々は教会に祈りを捧げ、以前にもまして盛んに寄付をするようになった。神の倉への貢物はアビスの防衛費に回され、アビス大聖堂に付属する施療院で鮨詰めにされた兵士達の治療費に充てられている。武器軟膏の効かない弾痕が痛ましい戦士たちは、施療院の悩みの種となっている。エストーラの医師が集中治療を行っているおかげで、一命をとりとめているものも少なくないが、病床は限られている。埋葬のための土地もない。


「猊下、おはようございます」


 警備をする僧兵が祈りの仕草をとって挨拶をする。オルクメステスも努めて普段通りに祈りの仕草を返した。


「おはようございます。今朝も神の恵み深く……」


「猊下、施療院の件なのですが」


「ええ。幸いと、敬虔な施しのため、十分な支援が可能です」


 オルクメステスは胸に手を当てて会釈をする。狭間の装飾が彼の柔和な表情の中に映った。僧兵は困ったような表情をして、言葉を選びながら続ける。


「そうではなく……。申し上げにくいのですが、戦死者たちの埋葬地が無くなっておりまして、その、納棺は限界ではないかと」


 僧兵は教皇の顔色を窺う。しかし、彼はあくまで穏やかに、眉尻を下げるだけであった。


「そうですね……。特例の発動を考えなければなりません。その為には、神への一層の奉仕が必要不可欠でしょう」


「猊下……では……」


 オルクメステスは手で波打つさまをジェスチャーする。神への奉仕者である御羊の御座から下る川は、ブリュージュとヴィロング要塞の方角へ向かって流れている。


「そして、神に救われるべく完全なる肉体を持つ者以外は、その肉体を天の国へと届けるべく煙と共に魂を捧げなければなりません」


「猊下。畏れながら、私はそこまでは申しておりません。可能な限り完全な肉体を残すのが、我らの務めではないかと」


 オルクメステスは僧兵の口元に人差し指を当てる。彼は、人々が眠る石の床に視線を下ろした。


「信仰は神の為にあるのではなく、生きとし生ける人のためにあるのですよ。主は私達をお救い下さるが、それは慈悲のためであって、人の恵みを受け取るためではありません」


 オルクメステスは静かにこめかみを抑える。そして、生まれて一度たりとも聞いたこのない福音を聞いたかのように、目を見開いて天を仰いだ。


「おお、恵み深きカペラよ、慈愛と慈雨と豊穣の我が主よ、どうかヨシュアの膝下に、罪深き子羊を導いて下さい……」


 僧兵は静かにこめかみを抑え、目を伏せる。オルクメステスの長い僧衣が、地面を静かに擦った。


 僧兵が目を開けると、既に教皇の姿はなく、彼は沈痛な面持ちで天井を仰ぎ見た。


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