‐‐●1903年春の第一月第二週、カペル王国、ヴィロング要塞‐アビス平原‐‐
古い要塞は星型城塞に建て替えが開始された。要塞に投入された工兵部隊と技術者は、プロアニアに新たな雇用を創出することにもつながる。王国内部の経済は安定成長期へと徐々に移行していた。
ヴィロング要塞の守りは盤石極まりないものとなっていたが、現在、プロアニアの主要な戦略は徹底的な攻勢であった。
第二歩兵連隊の一行は、既に騎兵部隊と共にカペル王国の聖都アビスを目指していた。
平原には雑草を取り除いただけの道があるだけで、草原と緩やかな丘陵、彼方に見えては視界から消える河川が広がるだけである。連隊長は戦友たちの腹が鳴ると、草原の雑草を毟ってはそれを仲間たちに与えた。
「とにかく生きるために食べるんだ。食べていれば、毒の有無もわかる」
「……ヤー」
か細い返答に叱責をするでもなく、連隊長は兵士に肩を貸した。もぞもぞと雑草を食べる戦友は、えずきながらも、何とかこれを飲み込んだ。
「繊維ばかりだ……」
「どうして戦車乗り共はあんなに食料があるんだ?」
戦友の中から愚痴が漏れ聞こえる。連隊長は言葉を飲み込み、彼らのために口に含めるものを毟っては渡していく。
延々と続く豊かな大地には、食料と呼べるものはおよそ見られなかった。彼らには後方の現状は把握できなかったが、前線に資源を輸送する余力はないことは窺い知ることが出来た。そして、長い消耗戦を続けてきた歩兵連隊よりも、多くの資源を持って到着した騎兵隊に余力があることも、否定しようのない事実であった。
カペル王国の長い草原地帯は、彼らを無防備に晒してしまう。歩兵達は常に周囲を警戒しながら、牛歩の歩みを続けた。戦車部隊に前方を守られながらも、摩訶不思議な影からの攻撃が、彼らの脳裏を過る。武器に常に手を添えて、不自然なほどきょろきょろと視線を動かしている。
「もうすぐアビスか?」
「戦車じゃなければ直ぐなのに……」
連隊長の背後でひそひそと話し合う声がする。無限に思える地獄は、行軍の足取りを益々重くさせた。
それでも、連隊長は歩兵達から愚痴が零れることに僅かながら安堵を覚えていた。彼らは塹壕戦の凄惨さを乗り越え、ひと先ずは言葉を交わせる程度の余裕が出来たのである。
穏やかな春の日差しを受けて豊かに育った雑草を毟っては、彼は戦友にそれを共有する。
味のしない繊維をすり潰しながら、長く緩やかな丘陵を下っていく。プロアニアとは比べ物にならない高い空と、澄み渡った空気が、彼の心を穏やかにしてくれる。
やがて道の脇に川が隣接し始める。カペル王国の水路と陸路が合流する辺りには、たいていは小さな関所があった。彼らは武器の安全装置を外した。水車のある製粉所や桟橋の設けられた小屋が、川沿いの道に幾つか点在しているのが窺えた。
『連隊長殿、一度休憩しましょう。整備が必要な戦車が幾つかあるようだ』
『こちら歩兵連隊。了解した。前方の小屋に警備がいるかもしれないから、十分な見張りをつけるように。どうぞ』
戦車がゆっくりと速度を緩める。歩兵達は戦車の周囲に集まり、一部が食料の獲得のために草原の中へと這って侵入し始めた。
連隊長は双眼鏡を覗き込む。教会の鐘は、未だ丘陵の遥か彼方にあった。
夕刻の草原地帯には草木が風に靡く音と、川のせせらぎだけが響いていた。連隊長は双眼鏡で川の向こうを眺めつつ、炊事係の呼び声を待つ。献立は、食べられないでもない雑草を入れ灰汁を抜いて出汁を取り、数匹の川魚をすり潰したものを入れて煮込んだスープである。ごく短時間で獲得した食材を何とか人数分に分配するのは毎回苦労するが、彼はカペル王国に満ちた大地の恵みの豊かさを噛み締めていた。
困窮の末に得られた対価がこれでは物足りない。何とか犠牲者の分も取り戻さなければ、効率的な結果とはいえなかった。
彼は双眼鏡の中に敵影のないことを注意深く確認していたが、不意に背後に人の気配を察知する。急ぎ方向転換をすると、少しばかり痩せたマリー・マヌエラが顔を覗かせていた。
「どう?実際のカペル王国は」
彼にとって、マリーは既に信頼できる仲間であった。薬漬けで狂った戦友を看護し、時には屈辱的な夜の仕事もきっちりとこなした。誇りや所属意識の強い彼女は、文化と価値観こそ異なれど、社会秩序を神聖視するプロアニア兵ともよく馴染んだ。
双眼鏡を静かに下ろすと、戦友に語り掛ける時のような穏やかな表情が現れる。
「隅々まで緑あふれる豊かな自然と肥沃な領土、私達の求めるものを全て持っている。正直、嫉妬しています」
川面に映る魚の影と、水面を走る波紋が、分厚い軍靴を脱ぎ捨てて川遊びをしたいような、無邪気な好奇心をくすぐる。規律に抑圧されてきた彼らはそこでの遊び方をまるで知らないが、マリーならいくつか遊びを知っているだろう。彼は対岸をぼんやりと眺めながら、この無軌道な好奇心に身を預けた。
「ブリュージュでは、どのような川遊びが流行っていたのですか?」
マリーは目を瞬かせたが、直ぐに柔和な笑みに戻る。その目には、夕陽の色に光を反射する、弟のような瞳があった。
「子供たちは魚釣りもしますし、川縁で追いかけっこもします。夏には水を浴びせ合いますし、時には魚を鷲掴みにして大きさを競い合います。それに、こんな小さな船を作って浮かべ、川に流したりもします」
マリーは胸元で小さな丸を作ってみせる。連隊長はマリーに顔を向け、意外そうに感嘆の声を上げた
「船を作るのですか?」
「大したものじゃないのよ。木の枝を削ったり曲げたりした、ゴンドラのような形のものです」
「はぁー、手先が器用なのですね」
爽やかな春の風が草を靡かせる。川面は茜色に煌めき、炊事係の兵士達がはしゃぎながら食材について語り合う。今日の夕飯は特に、等分が難しそうに思われる。
「こちらの子供は、多くが計算や読み書きを習わない。その代わりに生き方を学ぶのです。大きくなったときに、一人で長い冬を越えるためにね」
連隊長は大きく息を吸い込む。不格好だが旨そうな魚のにおいもする。どこか果物に似たような、爽やかな川魚のにおいである。
肺の中に煤や煤煙が積もることがない安心感が、息苦しさの為に早足になってしまうのを自然と諫めてくれる。ただの夕日が沈む光景にさえ、後ろ髪を引かれる思いが込み上げてきた。
「自らの手で作り、自らの手で食べ、自らの手で守る。それは大層息が詰まるでしょう。秩序を守り守られることが、私達を安堵させるのです」
炊事係が掬い上げた灰汁は、雑草の緑に比べてひどく茶色かった。
「私は、規律は、私達の悪人だけを掬い取れるものでいいのだと思います。あまり規律ばかり守るのも息が詰まるでしょう?」
「皆が守るからこそ、法は意味を成すのです。有情的で曖昧になれば、規律は形骸化してしまいます」
例えば、ある車両が制限速度を少しでも破るのを見逃すと、『制限速度を少し破ること』があるべき規律を上書きしてしまう。それに歯止めをかけるには、たった1mm/hでも、制限速度を破った者を、警察や自警団は許してはならない。そうしなければ、法は彼らを守ってくれないのだから。
「では、貴方達が均等に食事を分け合うのは、優しさや仲間意識からではないのですね?」
マリーは手を組んで諭すように尋ねる。目じりに僅かにできた皺が、積年の気苦労の多さを物語っている。
「もしも仲間意識や優しさからくるのであれば、きっと騎兵隊は支給された食糧を私達に分けてくれるでしょう」
マリーは悲し気に眉尻を下げる。連隊長の心の内で、何かが軋んだ。
炊事係がベルを鳴らす。歩兵連隊たちが、満面の笑みで鍋の前に群がった。
「ほらほら、連隊長殿。食べ遅れてしまいますよ」
マリーはあやすように彼の背中を押す。少なくとも、自分の食事があからさまに少ないということはないという規律を大いに信頼して、彼はゆっくりと歩く。たった一掬いのスープが、戦友たちの眼をぎらぎらと輝かせた。