‐‐1896年夏の第一月第二週、エストーラ、ノースタット3‐‐
我が国の国政について、一度簡単に説明しておかねばなりません。我が国の中枢を担うのは、すべての決定権を持つ帝国皇帝にしてエストーラ大公、ハングリア公、ウネッザ辺境伯、ホスチア伯爵、スエーツ子爵、ウネッザ総督監査人であらせられるヘルムート・フォン・エストーラ、通名ヘルムート・フォン・エストーラ・ツ・ルーデンスドルフ陛下です。
名目上、陛下はあらゆる帝国の決定権を有してはおりますが、皇帝としての権限は今や諸侯への兵役要求と、貨幣鋳造権、領内における紛争に関する調停権、勅書の発布の権限に限られております。現在では、勅書の発布も、実質的な支配権を有するエストーラ大公領その他の支配地域に影響力を及ぼすに限り、家臣であるプロアニア王の支配地域に対する影響力を有しません。また、プロアニア王はブランドブラグ辺境伯として、領内での貨幣鋳造権を有しているため、実質的には経済的にも、プロアニア王は皇帝から完全に独立した権威を有しています。
さて、そのような陛下を輔弼する為に、各大臣が陛下によって任命されます。この輔弼機関は、対外的にはエストーラ内閣と称され、各自専門分野に関する行政権を有しています。即ち、皇帝は立法権と行政権のうちの任免権を含む多くの権限、そして臣民と領主間の対立に対する調停権、即ち実質的な最終司法権を有している、ということです。陛下を輔弼する家臣たちについての詳細は個別の説明に譲ることといたしまして、現在の陛下の立ち位置について、簡単にご理解いただけますと幸いです。
執務室へと戻った陛下は、早速ペンを手に取り、プロアニア王への返答をお書きになります。陛下の達筆は世界的にも有名ですから、その滑らかな筆遣いは、先程の優柔不断な様子とは対照的に大変スムーズで、迷いのないものでございます。
宮廷特有の回りくどい表現は、プロアニアに対しては相応しくないため、陛下の返答も非常にシンプルです。食糧の提供はできかねること、互いに民の安寧のため、最大限の協力をすることを明記したものとなりました。最後にサインを残して丁寧にスクロール状にしながら、陛下はぽつりと呟かれました。
「私は、簡単にはいかないが、どうにか食料を融通することはできないかと考えている。例えば、カペル王国への打診などもその一例だと思う。資金の工面は私がすればよいだろう」
私の靴音に合わせて、手紙に封がされていきます。一瞬だけ広がった巻物状の親書は、革製の紐で柔らかく結ばれ、羊皮紙特有の艶やかな様子で机上に横たわります。私は中腰でこれを受け取り、陛下の耳元で「確かに賜りました」と答えます。すると、陛下は、困ったように眉尻を下ろし、微笑まれました。
「ノア。仕事の合間で申し訳ないが、少しお腹がすいた。麦粥か何か、作ってはくれないか?」
「少し……?畏まりました」
二日間の絶食……凡そ皇族とは思えぬ涙ぐましい努力が、「少し」などという言葉で陳腐になって、果たしてよいものか。私は急ぎ調理場へと向かい、料理長に麦粥を作るように命じました。
調理場は広く快適で、今は空席の音楽隊用の座椅子がいくつか、部屋の奥まった場所に仕切りを隔てて置かれております。これらは陛下のお食事の儀を彩るためのほかに、調理時間を確認するためにも用いられています。そのため、宮廷調理人一同は、各楽曲の演奏時間をある程度把握しており、従って、これは給仕係の使用人たちとの連携の為にも利用されているのです。
私は長らく空席となっている演奏席のほうを見ながら、料理長の調理をする音を聞くともなく聞いておりました。
「時折、調理の音に演奏が乗って聞こえることがありましてね」
料理長はそう言って、木べらをゆっくりとかき混ぜます。鍋いっぱい……というには流石に寂しいポリッジは、徐々に水を含みながら蕩けていきます。
「陛下が楽し気にお食事をされるお姿が恋しいのです。どうかこの災厄が、すぐに終息しますように……」
ポリッジは白色のまま、二人分よそわれます。配膳台の上に置かれた僅かな麦粥には、一杯の山羊の乳が添えられました。
「陛下のお気持ちが、どうか晴れますように」
「えぇ、有難う」
「こちらこそ、有難うございます」
料理長はそう言って深く頭を下げます。私は配膳台の取っ手に手をかけると、少しの粗相もないように慎重に、壁の影が射す廊下の中を進んでいきました。