‐‐●1902年冬の第三月第三週、カペル王国‐プロアニア国境、ヴィロング要塞3‐
焼けて崩れた石の要塞には、焦げた穀物の臭いがこびりついていた。
騎兵隊たちは酒盛りを始め、後に到着をした歩兵達は険しい丘の道を昇りながら、愕然として立ち尽くした。
遅れて到着した連隊長とマリーは、鼓笛隊の勇猛な軍歌を引き連れてくる。既に夜闇に沈んだヴィロングの平原地帯では、鼓笛隊の非番兵らが犠牲者の埋葬を始めていた。
穴ぼこだらけの平原地帯を埋めるように、犠牲者たちが塹壕に並べられていく。彼らは戦友の遺品を静かに抜き取ると、自分の泥だらけの衣服や、爪先の破れたブーツと取り換えていく。無事な衣服は回収され、濠の水ですすがれた後、歩兵部隊たちへの補給服として分配され始めた。
マリーは真っ黒な壁面をなでる。白い指先に煤がこびりついた。
「無事な食料はこれだけか……」
連隊長は僅かに焼け跡から救出された固いパンの前に屈みこむ。そして、補給品のジョッキを傾け合う騎兵隊たちに一瞥をくれた。
歩兵達は僅かなパンを手で裂き、夕食の支度を始める。雀の涙ほどしかない戦利品を有難そうに受け取りながら、配膳当番に小さく礼を言って受け取った。
戦友たちの遺品が続々と運び込まれる。血濡れの鉄兜、ほつれた制服、半分袖の割けた上衣、潰れた紙煙草、銃口の曲がった小銃……。いずれも原形をとどめないほどに圧縮され、ほんのりと鉄の臭いさえ漂った。
歩兵達のすすり泣く声が響く。そのうちの一人が僅かなパンを震える手で口に運んだ。
直後、彼は痙攣を起こす。涙で前方が見えなくなった仲間たちが、異変に気付いて彼の背中を摩る。やがて彼は血痰を吐き、その場に蹲った。
ひゅう、という呼吸音が不規則にする。兵士達が持ったパンを放り出し、顔が赤く変色していく痙攣した男に様々な施術を試みる。背中を摩り、解毒剤を直接注射し、回復体位に動かす。地面に落ちたパンは泥まみれになり、その上に血痰が止まらずかけられる。
やがて戦友が動かなくなると、歩兵達は彼に手を合わせ、その遺品を回収し始める。
もはや彼らには泣く気力さえなく、淡々と戦友を地面に横たえる。動かなくなったそれよりは幾らか温かい手で、彼らは一つ一つ大切に衣服を脱がす。
深い夜の闇も相まって、彼らの絶望はますます深まっていた。
マルタン・ディ・ケルナーはその陰湿さにおいて群を抜いた凶悪さを見せた。プロアニアの食料自給率の低さを見越し、無事な食物庫に放火をするだけに留まらず、食糧に毒を塗布し、更なる絶望を植え付けたのである。
一般人である歩兵達は、薄々感づいていた違和感を突き付けられて、士気をそぎ落とされた。薬品で殆ど興奮状態になりながら身を削り、幾万の犠牲を払って手に入れたものが、煤塗れの古い要塞と、この食べれば死に至るパン数個だけであった。彼らはもはや、現実に対して如何なる希望も持ってはいなかった。彼らはただ粛々と、犠牲者を塹壕に埋葬した。
「もしも地獄があるのなら……」
倒壊した石の要塞に、月光が降り注いでいる。右手では酒盛りをする騎兵隊の騒々しい笑い声が反響する。黒い煤を纏った城壁は、歪に斜面を作り、死屍累々を埋めた平原を晒している。兵士たちが、降り注ぐ月光に向かって、戦友たちを担架に乗せて運んでいく。担架からは、泥まみれの手が力なくぶら下がっていた。血痰のにおいと、耐え難い死臭とが、交互に鼻腔をくすぐった。
「それはここに違いない」
極限の空腹に耐え兼ねた腹が鳴る。眠りについた戦友を囲んで、彼の部下たちが軍歌を送る。その細い声は震え、充血した赤い目が、小麦色の毒が横たわる地面に視線を落としている。
「きっと俺たちは地獄に行くんだろうな」
鼓笛隊の軍歌が虚しく響く。マリーが静かに、連隊長の腕を抱く。白い柔肌が、黒ずんだ軍服に迷いなく絡んだ。
連隊長は彼女に身を委ね、自嘲気味な笑みで埋葬される戦友たちを見つめる。ゲンテンブルクよりもはるかに高い空には、満天の星空が輝いていた。