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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1902年
126/361

‐‐1902年冬の第三月第三週、エストーラ・ムスコール大公国国境・ビエスト沼地入国管理事務所‐‐

 朝の退屈な朝礼に、職員はいつも欠伸を噛み殺す。話の長い所長の言葉を聞き、十数分重い瞼と戦っているので、中途半端な大きさの所長の声が程よいノイズとなり、首をかくつかせない人はいない。

 洒落た黄色い煉瓦の外壁は、エストーラとムスコール大公国の両方に出入口を持っている。この建物を跨げば、人々は両国を行き来することが出来る。そうした重要な建造物でありながら、この建物はごく小柄であり、従業員数も少ない。秋から冬にかけては常に深く粘着する泥濘に満たされてしまうので、黄色く尖塔の突き出た管理事務所の建物も、往来は疎らであった。


「……以上、よろしく!」


 所長が肩を怒らせながらすたすたと自室へ戻っていく。一方で職員は、勤務時間と休憩時間を確認すると、それぞれが持ち場へ向かって足早に向かっていく。泥の付いた靴で滑らかな床を濡らしながら、開場の支度を始めた。一人はムスコール大公国側の重い扉を開き、一人はエストーラ側の二重扉を開く。他の数名がゲートの横に座り、荷物用の籠や鉄板、職員手帳を取り出した。


 国境への侵入と違法な食材・その他危険物を持っての入局は禁止されている。また、ムスコール大公国からの通達により、コボルトの入国は原則禁止となった。これに伴い、エストーラ側からコボルトを『輸出』することも原則禁止となっている。


 狭いゲートの左右と真ん中で、制服を身に纏った職員が朝の挨拶を交わしている。


 朝日が泥濘の地平線から顔を覗かせ始める。人の往来は以前にもまして疎らだが、特に開け放たれた扉から、上質な衣装を纏った人々が泥濘に足を取られながら、鈍重な足取りで国境へと向かってくる。深くフードを被り、首元にファーを巻いた人は、俯きがちに足元を気にしつつ、ほかの入国者の亀の歩みに合わせて進んでいく。職員もようやく眼が冴え始め、質問事項を記したリストを受付の中央に、各種の印鑑を利き腕の側に置くなど整理を進めている。


 ひゅう、と強い風が吹く。扉から吹き付ける冷たい風に急かされて、職員らはそれぞれの担当となる出入国者のいる扉を一瞥する。未だ薄暗い空には、疎らな星々と、欠けた月が薄っすらと見えている。


 やがて、多くはない人の列が、三つのゲートの前へとやって来る。ムスコール大公国側からくるのは、長いトレンチコートや分厚い毛皮のコート、セーターなどを着こんだ真っ赤な顔の人々であり、エストーラ側から訪れたのは、しっかりと靴ひもを結び、大きな荷物を荷馬車に満載した人々である。それぞれがすれ違う人の顔など気にも留めず、在留許可証と入国用のパスポートをゲートの職員に提示する。彼らの行動は迅速であり、殆ど無駄がない手慣れたものだ。


 職員も、彼らから受け取ったものを捲り、欠損や印刷の間違いなどがないかを確認する。それと同時に、彼らに対してリストに載った質問を幾つか行う。当然、入国者もこれに慣れた様子で応じ、朝特有の、抑揚の少ない気怠い会話を終えると、印鑑を押したパスポートと在留許可証を彼らに返す。


 殆ど流れ作業の応答を十数回繰り返した職員であったが、ふと、目深にフードを被った、首周りにファーを巻く人物に視線を止める。


 今朝の天候は比較的よく、却って雪解けの泥濘が服の裾を汚している。とはいえ、その人物の服は何処かくたびれており、それを手で支えるようにしながら、体の線を隠していた。

 体格は小柄で女性のようにも見える。一方で、がたいは良く、背の低い男性のようにも見えた。


 ゲートの中へと、件の人物がやって来る。物憂げに顔を下げ、目深にかぶったフードで顔の中を隠すように振舞っている。

 職員の左手が自然と警報のベルへと向かった。


「在留許可証とパスポートをご提示ください」


 フードの人物は暫くして、両手で服の中身を探る。腰に帯びた警棒に利き手を添えた。


「はい」


 彼は服の中から手帳のようなものと切符のようなものを取り出す。そして、顔を職員に近づけた。違和感を覚えるほどの獣臭が職員の鼻を掠める。思わず顔を顰めた職員の耳元で、湿った鼻先が僅かにフードから顔を出した。


「私達はただ、自由になりたいだけなんだ」


 職員は切符とパスポートを手に取る。切符には、『ウラジーミル発・サンクト・ムスコールブルク着 公国横断鉄道』の文字が刻まれている。

 パスポートを一頁開く。中身は何の変哲もない手帳であり、そこには、流暢なエストーラの文字が、古いインクで記されていた。


『貴方がこのメモを開いたということは、私の住む土地で、コボルト達が危険に晒されているということです。私は貴方達エストーラの皇帝陛下が、心優しく、柔軟な御仁であることを知っており、それを誇りに思っております。どうか、貴方の心の許す限りにおいて、僅かでも、彼らを救ってはくれないでしょうか。私は祖国の誇りを忘れたことは一度たりともありません。そして、貴方の信じ、愛した文化を、コボルト達と分かち合うことが出来るとも考えています。どうか、慈悲深いご判断をお願いいたします。


 エストーラ帝国 第三皇子 エルド・フォン・エストーラ』



 職員は思わず顔を上げる。視線の先には、湿った黒い鼻先がある。顔中を体毛に覆われ、大きな口からは牙が見えている。

 暗いフードの内側に、丸くつぶらな瞳が輝いていた。


 今は亡き、エストーラの皇子、現皇帝ヘルムート・フォン・エストーラの父親。彼は信じられずに、動揺を飲み込みながら頁を捲った。


「在留期間は」


「1か月です」


 皇帝が愛するオオウミガラスの、あまりにも精巧な絵画が続く。険しい岩礁に佇む鳥は、悲しげに、遠くの噴火した岩礁を眺めていた。さらに1頁を捲る。


「在留目的は」


「観光です」


 鼠に砕かれた卵殻を悲し気に見つめるワライフクロウ。鬱蒼と生い茂る木々の間で倒木に跨り、静かに子供に視線を送っている。


 その細やかな筆致、練り上げられた陰影の神秘性は、エストーラが誇る宮廷画家の傑作に遅れを取らないものであった。

 職員は印鑑をそっと手に取る。押印の仕草をして手帳を仕舞うと、彼は厚着のコボルトに対してそれを返した。


「ようこそ、芸術の都へ」


 フードの奥にある輝きが、つと肌を伝った。コボルトは手帳と切符を受け取ると、それを大切に両手で抱え、深く頭を下げる。彼が足早に過ぎ去っていくのを見るでもなく、職員は次の入国者を招き入れた。


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― 新着の感想 ―
[一言] エ、エルド……!!! 職員が顔を上げたのと同時に、私もへんな声が出てしまいました。 現実はそう易しくないのかもしれません。ですが、わたしはエルドの愛がなにかを成し遂げられることを願いながら読…
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