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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1902年
124/361

‐‐1902年、冬の第一月第三週、サンクト・ムスコールブルク2‐‐

 始まってしまった凶行に、官僚が手を出すことは出来ない。議事堂は封鎖され、レフは門前払いを食らった。平和と秩序を愛するムスコールブルクの警察隊は、安全装置を付けたままの銃剣を提げ、腰に帯びたサーベルでレフを威嚇している。


 大公宮殿の門扉を埋め尽くす群衆が、国営ラジオを中心に一つ置き、雪の上に腰を下ろしている。皆が怒りに震え、背後を通り過ぎるコボルト奴隷達を見つけては卵を投げつけてけたたましい非難を送った。民衆の心と野党の出世欲、与党議員の思惑が見事に合致した緊急の議員提案による法案提出は、専門家を雪の上に締め出して迅速に始められた。


「レフ!まずいことになってる!」


「アンナ、俺も聞きつけて駆けつけたんだけど……」


 レフは目の前で武器を構える兵士に一瞥をする。アーニャは唇を噛み、激しく地団太を踏んだ。


 ラジオを囲む人々が、宰相シリヴェストールの登壇に騒めく。彼はノイズ越しに頁を捲ると、叱責の声が出ない議場で粛々と語り始めた。


『今回、私がある方から受け取った資料がこちらになります。これにはエストーラ皇帝の署名、帝国国章の捺印と共に、エストーラ帝国が今現在目論んでいる計画について、明記されています』


 奥の議席から「偽物だ!」という野次が飛ぶ。宰相は余裕綽々とした様子で、激しいノイズにも拘らず明瞭に聞き取れる声で続けた。


『皆様にも思うことはあるでしょうが、これが真実であるとすれば、我が国の経済は一向に好転せず、なお厳しい経済状況が続くこととなりましょう。議員各人の努力の賜物として行われた多くの公的事業による経済の回復も微々たるものでありました。看過し難い危難が間近に迫っているにも拘らず、行動しないと決断する議員はこの場にはおられないでしょう』


『ここは慎重に動向を観察するべきではないですか?帝国はプロアニアに対して僅かしか積極的な攻撃を仕掛けておりません。この事実を踏まえれば、その文書の真偽を討議することが先決ではないでしょうか?』


 第二党の党首、ユーリーの声である。


「普段の会議で行われる責任追及を抑え、柔軟な対応がとれる質疑を行ったみたいだな」


「責任逃れはお家芸だからね」


 アーニャは棘のある口調で答える。常日頃から、こうした点において、彼の立ち振る舞いは巧妙と言えた。


『確かに、事の真偽を検討するというのは一つの考え方であります。しかしながら、これ以上の経済状況の悪化は、国民の生活はもとより、我が国の盟友にも致命的な結果をもたらす恐れがあります。そこで、私は、コボルト奴隷らへの倫理的な配慮も考慮して、奴隷売買等規制法を本議会に提出することといたしました』


 企業の支持を得てきた議員たちの中から騒めきが起こる。ノイズ越しの動揺に対して、集った民衆は狂喜乱舞を始めた。


「奴隷売買等規制法……」


『第一条草案より、【本法律は、公国民の国民生活の改善と、コボルト奴隷の保護及び観察、雇用の創出による経済状況の改善】を主たる目的として立案いたします。具体的には、コボルト奴隷を企業から国家が買収し、彼らを保護区に収容します。そして、彼らの労働力を現在の未就業者に開放し、さらに企業には新規採用に伴う法人税の緩和措置を設け、雇用の創出と経済状況の改善を行います』


 薄く積もった雪の上に腰を下ろした民衆たちが拍手を始める。拍手は門扉の隅から隅へと伝播する。やがて拍手が止むと、野党議員が激しく机を叩いて手を挙げる。


『それはコボルト達の権利を侵害するのではないですか?彼らは取引に応じて今の奴隷となっており、決して異なる活動をするために奴隷となったのではありません。また、コボルト奴隷の保護ということですが、これは国家の負担で彼らの生活費を捻出する必要があるはずです。このような負担について、閣下はどのようにお考えなのでしょうか?』


『ご指摘の件につきましては、確かに倫理上望ましくない保護・観察であるというのは事実であります。しかし、コボルトは公国民ではなく、奴隷として登録されており、人としての権利は有しておりません。現在優先されるべきは公国民の権利であると考えております。また、保護に伴う負担につきましては、雇用創出に伴う税収増で十分に填補可能であると考えております』


 雪の上に座して待つ民衆たちが険しい表情で議論を見守っている。聴衆は今、自らの生活の保障と健全化のために、宰相に願いを託していた。


 閉ざされた門扉の向こうを異様な雰囲気が包み込んでいる。コボルト奴隷が物を運ぶのに向けて、「雇用泥棒」という掛け声が、容赦なく浴びせられる。雪の上に落ちた卵の殻は、降り注ぐ雪に塗れて、直ぐに街路の白と一体化を果たす。コボルトは白味を拭い捨てながら、足早に宮殿の前を通り抜けていった。


「一度大衆の方針が固まってしまえば、この国に恐れるに足るものなどない……」


 レフが思わず零す。規則正しく行われる、人気取りを越えた理想的な国民議会が、静かな狂気を伴って繰り広げられる。


 ある者は、成果と責任から自由になるように振舞い、ある者は自己の権利と信用を勝ち取るために彼らからの質疑に応じる。

 その議会にコボルトの代表者はいない。彼らが代表するのはそれぞれの投票者であり、それがたまたま公国民と合致したに過ぎない。


 やがて投票の様子が放送される。議員が列をなし、議長席の前に設けられた投票箱に向かって、赤か青の紙を入れていく。普段であれば牛の歩みで法案の満期を待つ野党議員たちも、今は各々の信念に従って、両手で隠した札を入れていく。


 やがて数百の議員が座席に戻ると、開票が始められる。青と赤の紙を書記官が仕分ける、紙のこすれ合う音が、振り子時計の音と共に響く。固唾を飲んで見守る民衆は自然と手を合わせて祈り、アーニャが悲し気に目を伏せた。


 耐え難い圧倒的な正義が、議会の雌雄を決する。一官僚には、この迅速な、あまりにも迅速な開票作業を、扉の前で睨むことしか出来ない。


『開票結果を公表いたします』


 音割れを起こしながら、議長が口を開く。人々は息を呑んで、次の言葉を待った。


『賛成多数につき、奴隷売買等規制法を可決いたします』


 割れんばかりの喝采が響き渡る。マスクを着けた物憂い行進者と闊達な活動家が共に手を合わせて歓喜に耽った。喜びは空につかの間の晴天を運び、彼らの心に向けて太陽が僅かな熱を注いだ。


「おお、神よ……」


 雲の切れ間から降り注ぐ白い光の上には、虹の雷(オーロラ)は掛かっていない。


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