‐‐1902年、冬の第一月第三週、サンクト・ムスコールブルク‐‐
空は見渡す限りの曇天で、深雪の下に靴跡がくっきりと列をなして連なっていた。町を歩くプラカードを抱えた集団が、次第に衣服を整えていく様をニヒルな笑顔で見届けながら、レフは朝の日課であるコーヒーハウスでの情報収集を進めていた。
毎日のように経済欄に掲載される横ばいの株価一覧が、自国経済の変わらない低調を示している。
正社員の登用を惜しむムスコール大公国の諸企業は、これまで抱え込んできたコボルト奴隷達がビジネスの基盤を支えて、企業価値を『無償で』増やしてくれることに気づくと、コボルト奴隷の纏め買いと教育の必要な新規雇用者の雇用見送りを進めている。
これは、貴族、貧民への免税を支えるため、税収を大多数の中間層に依存しているこの国において重篤な事態である。
(奴隷制度の解体が一番無難な選択肢ではあるが……)
民主制国家であるこの国において、大衆の意思に合致しない法改正は困難を極める。何より国民の代表である野党議員達による、内閣批判への格好の餌となり、その結果法案が任期を満たして流れ、国民への悪印象を与えるという結果が生じてしまう。
上が変われば官僚にとってもいい迷惑であるし、これまでの取り組みが泡と消える虚しさは推して知るべきである。
この点、奴隷制度の解体は非常に筋が悪い。コボルト奴隷は安価な労働資源として重宝されており、とにかく企業からの印象が悪い。その上、これまで気にする必要のなかったコボルトの人権について議論をすると、市民は兎角嫌な顔をする。
つまりは、『彼らの為に僅かでも血税を割きたくない』のである。
当然、野党議員はいつでも(いずれの勢力が野党議員となっても)現在の政府の方針に反対するため、議員・大衆心理・大企業のあらゆる方向からの非難を受けて、実現せずに改正法案自体が任期の満了によって流れてしまうだろう。これを強行採決すれば、それこそ野党の思うつぼである。現状を解決するための手段としての最適解は、民主主義において必ずしも実現しないのである。
騒がしいプラカードの行列に続いて、沈黙を守りながら粛々と歩む、顔をマスクで隠した行列が進む。雪を肩に被り、『私は健康であり家族を養うために仕事を求めています』という手作りの看板を首から下げた人々の行列は、政府の施設がある中心街を巡った後、工場地帯や商業地帯を回る。大規模な失業の波を受けて、そのマスクを被った人々は赤くふくよかな唇を持ち、艶やかな肌と生き生きとした髪を持つようになっていた。
「若者の努力不足だよ」
ある中年男性が呟く。レフと同じように恐妻から逃れてきたらしい正装の男は、新聞を片手にコーヒーを啜っている。
「そして政治家の怠慢だね。民衆や未来のことを考えていない罰が当たったんだ」
コーヒーハウスの井戸端会議も、徐々に中高年層の厳しい語気が目立つようになっている。彼らからすれば、死守できるポジションを死守しない若者たちは愚かであり、死守したいポジションを死守しようとする政治家は無能なのである。レフは陰鬱な表情で頁を捲る。政治面の一面を飾るのは、『エストーラ皇帝、世界制覇への陰謀 コボルト奴隷たちの反乱、懸念か』という見出しである。レフは顎を引き、目を細めて記事を閲覧する。そこには、以下の通りに記載されていた。
先日、ある勇気ある議員によるリークによって、世界の危機的な状況が明らかにされた。彼は、エストーラ皇帝が認可を与えたコボルト達による議定書を獲得し、彼らが
一、コボルトの独立した王朝を建国すること
二、その領土をプロアニア王国の占領地に設けること
三、手始めとして、国境付近の山村を占拠・略奪し、ここにコボルト騎兵らが駐屯軍として駐留すること
四、その為にムスコール大公国における国家予算の基盤である各種税制による収益を阻止するよう、コボルト奴隷たちに働きかけてきたこと
五、これら全権がエストーラ皇帝の承認によって行われ、またこれらの破壊活動各種は帝国の最大版図獲得に寄与するものであるべきこと
六、この議定書の決定はコボルト達による如何なる破壊活動の正当性を認めるものであること
を宣言した。昨今の世界的危機と雇用問題は、これらコボルト達との関連が疑われ、景気の低迷にも悪影響を与えていると考えられる。当該議定書の内容は既に宰相シリヴェストール・アバーエフ・マスカエヴァ氏にも伝えられている。国会は再びこの問題について激しい議論を続けることになるだろう。
「なんだこれは……」
レフは慌てて機械時計を確認する。時計は国会の開会一時間前を示している。外には職を失った人々の悲しい行列が続く。彼はチップを机の上に叩きつけると、慌てて国民議会へ向かって走り出した。
大衆のプラカードが怒りに震えている。「パンと自由を」、「納税者を保護しろ」という言葉に加えて、「奴隷はいらない」との文言が追加されている。それはとってつけたような乱雑な文字であり、今まさに走り書きされたものに見えた。
(これまで以上に非常にまずいことになっているぞ!)
彼は雪に足を取られながら走る。ムスコールブルクの空にごろごろという雷鳴が轟く。真っ黒な分厚い雲の隙間が覆う西の空を、雷が割いた。