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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1902年
121/361

‐‐◯1902年冬の第一月第三週、ムスコール大公国、サンクト・ムスコールブルク2‐‐

 ムスコール大公国の国会議事堂は元々、宮殿の一部に当たり、はるか昔に三権分立制度(旧三権分立制)を採用してから、行政を取り仕切る「君主院」と区分して、現在の貴族院の被選挙権者である議員のみで構成された立法機関である「枢密院」として、分譲された過去がある。そのため、会食用の個室が用意されていたが、秘匿主義者のプロアニア政府は、常に彼らの望む場所で会食を行うようにと申し出ていた。今回もその例に漏れず、普段から使われる老舗の高級料理店まで、シリヴェストールは車を走らせる。

 ムスコールブルクの穏やかな豪雪の中では、チェーンの取り付けは必須である。滑り止めのゴム・タイヤ需要は年々増しており、経済がもっと上向いてさえいれば、今頃はより良いタイヤが開発されていたかもしれない。宰相は雪かきをする大衆を一瞥しながら、通り過ぎる冬景色にアクセルを踏んだ。


(かつてであればこのような険しい視線を民衆に送ることはなかったのだろうな)


 各法案を用いて刑事・民事事件の判決を下す商工業の有力者たちを基礎に運営された審問院、王大公の下で、実際の国家運営を営む君主院、君主院、審問院の国家運営の基盤となる法案を立法する枢密院という三権力は、当時では考えられないほど先進的な、平等な社会を実現したという。

 しかし、今となっては、貴族は立法府の単なるブレーキにまで押し込まれ、王大公は単なるお飾りとなり、民衆のお心が国家を支配する歪な大福祉国家と成り果ててしまった。もはやかつての威勢は貴族にはなく、民衆院の顔色を窺いながら枢密院の運営を何とか抑え込む力しか残されていなかった。


 シリヴェストールは深い溜息を零し、高級住宅街の一角にある、神々の立像が目印の料理店へと向かう。かつて女傑ロットバルト卿が愛し、子供時代の天文学的天才である未来博士(ユウキタクマ)も親しんだ、由緒ある高級料理店である。その佇まいは当時とほとんど変わりなく、サンクト・ムスコールブルクの歴史を見届けてきた。


 少し距離のある駐車場に車を停めると、シリヴェストールは身震いをしてから席を立つ。小走りで料理店に入店をすると、そこにはすでに国王ヴィルヘルムの姿があった。


「お待たせ致しました、国王陛下。お会いできて光栄に存じます」


 シリヴェストールは手を擦り合わせるのをやめて、軽く雪を被ったシルクハットを持ち上げて挨拶をする。ヴィルヘルムは嬉しそうに立ち上がると、彼らは互いの苦労をねぎらって握手を交わした。


「こちらこそ、お会いできて光栄です宰相閣下。さぁ、席におつき下さい」


 ヴィルヘルムは人好きのする笑みを浮かべている。シリヴェストールは彼が皇帝やカペル王国の国王にとる態度を知っているので、懐柔されることはなかったが、同時に信用もしていた。


 ‐‐プロアニア王国の国王陛下は、常にムスコール大公国の閣僚に対してだけは友好的である‐‐


 長い国際交流の歴史の中で、これだけは変わることのない両国の伝統であった。シリヴェストールは早速席に着くと、国王陛下のグラスに度の強い蒸留酒を注ぐ。同じように、ヴィルヘルムは蒸留酒をシリヴェストールのグラスに注いだ。


「厳しい寒さですが、お変わりありませんか?」


「はっはっは。何のこれしき、日常ですよ。陛下こそ、お変わりありませんか」


 グラスをぶつけ合い、シリヴェストールは大胆に酒を流し込む。一方国王は不慣れな度数に、ちびちびと少しずつグラスを傾けた。


 二人の顔は暖炉の温もりと蒸留酒のお陰ですっかり林檎色を取り戻す。運ばれてくる前菜は、色鮮やかなソースで周囲を飾った、帝国風のパテであった。

 パテを見おろしながら、国王ヴィルヘルムは愁いを帯びた笑みで答える。


「正直、この度の戦乱は身に余る悍ましさです。骨身にこたえるとはまさにこのことで、我が国民の食料を確保するためとはいえ、いつも凄惨な報告を受けております」


 シリヴェストールはグラスを片手に表情を曇らせる。国王は普段とは思えぬしおらしさで、ちびちびと蒸留酒を喉に流し込んでいる。


「失礼ながら、今回の戦争の終着点を、どこと見込んでおられるのですか?」


 宰相の脳裏には平和維持活動への貢献という言葉が浮かぶ。それは、公国民に対する恰好の釣り餌であった。


「えぇ。ブリュージュ占領をカペル王国が承諾して下されば、我々としては十分に食料の供給を得られるはずであると、考えておりましたが……。カペル王国は一向に首を縦には振らず、この度エストーラの国境での痛ましい事件も……」


 ヴィルヘルムは額を手で覆い項垂れる。ムスコールブルクの曇天から、細雪がはらはらと舞い降りてくる。

 シリヴェストールは悲痛に顔を曇らせるヴィルヘルムを見つめて、親プロアニアの根強い支持層を囲い込む希望を見出した。とかく地盤を固めることが、自身と国家、世界の平和に繋がる。


「何か私にできることはありませんか?」


「温かいお言葉、有難うございます。ですが私が懸念しているのは、貴方のことなのです」


 代わる代わる配膳される料理はいよいよ、メインディッシュとなった。ムスコール大公国の北方では生食でも愛される、海獣のステーキである。分厚い脂肪と食べ応えのある肉感は、この地域ならではの逸品である。


「私ですか……?」


「えぇ。現在、両国の関係が良好に推移しているのも、全てはシリヴェストール閣下が宰相を務め、辣腕を振るっておられるお陰だと考えています。しかし、この度の逃れようのない危難によって、閣下に厳しい責任追及がされていると伺っております。そこで、両国の益々の繁栄のために、お力添えをしたいと考えておりまして……」


 ヴィルヘルムの瞳が赤く光る。シリヴェストールは思わず顎を引いて姿勢を正した。国王はボーイに前掛けを着せられながら、胸ポケットの中を探る。彼はその表紙が見えないように伏せて置き、机の上を滑らせた。

 シリヴェストールは今朝の激しい精神攻撃を思い出し、紙面と王の瞳とを交互に見る。赤い瞳の男が分厚い海獣のステーキに齧り付く。あふれだす肉汁が、皿の上に滴り落ちた。


 シリヴェストールが手早く紙面を拾い上げ、表紙を確認する。彼は目をひん剥き、驚愕に任せて赤い瞳を見た。

 おいしそうに肉を咀嚼する音がする。噛み砕かれた肉片が、耐え兼ねて脂の海で悶えている。


「宰相閣下、大衆を扇動するのは意外に簡単なのですよ」


 ヴィルヘルムは、脂で汚れた口周りを袖で拭う。若々しく光沢のある赤い唇が、歪に弧を描いた。


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