‐‐◯1902年冬の第一月第三週、ムスコール大公国、サンクト・ムスコールブルク‐‐
「説明責任!説明責任を求めます!」
野党の党首が声を荒げる。ソードラインを守った広い議場の中を、怒号と叱責の声が飛び交っている。
もはや毎日の伝統と化したこの光景に、宰相シリヴェストールは心底うんざりしていた。半ば投げやりになりながらした答えは、真面目にした応答へ対する非難よりも幾らか心持ちが穏やかでいられるようであった。
書記官が忙しく左右両翼から飛び交う罵詈雑言を追う。野党が答えれば与党が答え、与党が答えれば何であれ非難が飛んだ。
政治とは人気投票であるとは、よく言ったものだと、宰相は静かに深く腰掛けながら考えた。
着飾った民衆院の議員たちが、口汚く罵り合う姿を、その中枢にありながら、最早これまでと完全に諦観に落ち着いたシリヴェストールは沈黙を守っている。高い天井の先から赤絨毯に乗る爪先まで、怒号と非難の地響きは議場を埋め尽くしている。
「宰相閣下!議論の途中だというのにあなたは沈黙を守っている!その不遜な態度は如何なものか!」
無関心なシリヴェストールの瞳を指して、若手の野党議員が叫ぶ。「そうだ、そうだ」と、後追いをする重鎮たちの聞きなれた声が続いた。
質疑を受けたからには答えなければならない。シリヴェストールは重い腰を上げ、まだ爛々と輝く、意志を纏った議員の瞳を眠たそうな重い瞼を開けて見返した。
「えー、私は必要であればご返答いたしますが、これまでの質問は立案担当者と専門家の方々からのご返答こそが相応しい回答となると考えておりました。十分に彼らの意見は尊重されるべきものであります」
「無責任だ!」
思わず彼の額に青筋が浮かんだ。ああ言えばこう言う、という態度を崩さない責任無き代弁者の言葉は、議場にだけは良く響いた。
「無責任と仰いますが、ご自分でそのお言葉を咀嚼したことがございますでしょうか。私は、立案担当者との議論を通じて、彼らを信用し、責任をもってその貴重なご意見をまとめたと考えております。果たして貴方ご自身は、ご意見を纏めて議案を提出されたことがおありでしょうか?是非とも、この質疑に対してご返答いただきたく存じます」
殆ど喧嘩腰で陳述席に立つ彼は、野次を飛ばした議員に一瞥をくれながら答える。前屈みの姿勢がいかにも高圧的に映り、議場の報道席の人々は一斉にペンを走らせた。
「議論のすり替えはやめてください、閣下。今は財政立て直しと雇用問題の解決のための法案について話し合う場面ではありませんか。そしてこの立案には問題がある、何より説明が不十分であり、国民への説明が必要だと言っているのです」
中立性を守る報道席の人々は、議場の隅で柵越しに、野党の言葉に耳を傾けた。
シリヴェストールは深い溜息を吐く。それに目敏く飛んだ野次が、議場一帯を響き渡った。
「ですから、一度ご自分でお言葉を咀嚼しては如何でしょうか。それもと、私の意見は一顧だにしないというのが、民主主義のルールだというのですかね?」
ペンが紙の上を滑る音と、一つ一つを聞き取れないほどの津波のような激しい罵声。議長がガベルを鳴らし、教会の鐘が鳴ると、議論は止み、悪態を吐いた野党議員たちから順番に、会議室を後にする。
「宰相閣下、本日午後は、ヴィルヘルム陛下との会食が予定されております」
「分かった」
シリヴェストールは耳打ちをした秘書の肩を叩く。秘書は彼の袖の下から一枚の紙幣を抜き取って去っていく。
シリヴェストールは午後の予定に記者会見がないことに心底安堵しながら、凝り固まった体をほぐして立ち上がる。深く腰掛けた尻は床ずれに痛み、彼は尻を労わりながら、閣僚たちと共に自室へと向かう。王国との融和の証でもある、プロアニア特有の真黒な民族衣装に着替えなければならなかった。
尻を労わりながらゆっくりと歩く宰相は、周囲を非常に気にかけながら、廊下を歩いていく。出待ちの報道官にでも見つかれば、この晴れやかな気分もすっかり萎えてしまうだろう。
幸い、今日の不遜な態度のお陰で、彼らは関心事項を「野党議員の光」の方に向けてくれたらしく、彼は激しい質問攻めに遭わずに、自室へと戻ることが出来た。
彼は自室に戻るなり、最新の電気式照明を点けると、深い溜息を零した。何を傍受されているかもしれないので、彼は沈黙をしたまま上衣掛けに分厚い生地の服をかけ、プロアニア人の民族衣装に着替え始める。殆ど儀礼的な手順であったが、この民族衣装が大層着にくく窮屈で、中に綿も詰まっていない酷い衣装であった。こうした服を着て労務に赴くプロアニアの大衆は、果たしてその技術に見合った幸福を授かっているのだろうか。彼はそんなことを考えながら、時折小さい溜息を零し、衣装を着替えなおした。
ちょうどその折に、松の葉を象った意匠を刻まれた扉がノックされる。彼は慎重に近づくと、覗き穴に目を近づけた。
今日は何という幸福な日だろうか。そこにいたのは、先程の秘書であった。
「会食の支度が整ったようです。ヴィルヘルム陛下がお待ちです」
「今行くよ」
シリヴェストールは普段より弾んだ声で答える。松の葉の戸口を開いた彼は、実に晴れやかな笑顔で廊下に現れ、秘書に袖の下を覗かせた。