‐‐1896年夏の第一月第二週、エストーラ、ノースタット2‐‐
プロアニアからのお手紙には、ごく短い文章で、「食糧の融通はできないか?」といった旨の内容が記されておりました。とはいえ、我が国も危機の年であり、そう易々と快諾するわけにはいきません。陛下は暫く悩んだ末に、家臣たちを会議場に呼び、お手紙の内容についての助言を求めることにされました。
会議場は大きなシャンデリアを挟んだ円卓を囲む形で行われます。陛下は中央の、出口から最も遠い赤い玉座に座り、小さなため息をつかれました。
「プロアニアはもとより食糧自給率の低い国……飢饉ともなれば多くの民が苦しむことになるだろう。そう思うと、胸が痛む……」
陛下はそう言って、膝の上で握ったこぶしを僅かに震わせます。今にも泣きだしそうな赤みがかった涙袋の上には、ひどく消沈した、潤んだ瞳がございました。
「ノア、君には迷惑をかけるね。決断力のない私をどうか叱っておくれ」
「陛下……そのようなことは……」
私は言いかけて、陛下の悟ったような笑みに答えを詰まらせてしまいました。何せ、私自身、陛下の神経質なところには、実際に辟易することがございましたから。それが優しさゆえであると疑う余地もないばかりに、私は、陛下にかけるべき激励の言葉さえ、失ってしまったのです。
暫くして、我が国の農務大臣、大蔵大臣、そして観光大臣が入室します。お手紙が全員に渡った後、怒りに身を震わせるのは観光大臣であるフッサレル様でした。
「陛下、プロアニア人は人から奪うことしか考えのない浅慮な奴らなのですか!この窮状に至ってなお、我が国に何かしらがあるとお考えなのか!」
「陛下、今は臣民の人命を最優先するべきではないでしょうか?陛下の望む通り、我が国には食糧の貯えも御座います」
続けて、農務大臣のアインファクス様は粛々と答えます。彼の意見に賛同するように、各大臣は深く頷きます。
陛下の表情はやはりどこか悲し気です。不必要に明るいシャンデリアの下、陛下の窪んだ眼の下にできた影はさらに深い暗色となって、陛下に纏わり付いております。
短い沈黙は、私には永遠のように長く感じられました。陛下は王国に対してではなく、国民に対する支援を望んでおられます。しかし、我が国が国家に対して支援を行ったとして、その支援が実際にプロアニアの国民にたどり着くとは限りません。特に、観光大臣であらせられるフッサレル様は、生粋のプロアニア嫌いで、皇帝を自称するヴィルヘルム王へ、強い猜疑心を抱いておられます。
「フッサレル君。私は、ヴィルヘルム君の善意を信じたい」
陛下は、俯きながら答えます。すかさずフッサレル様は、首を大きく振り声を荒げます。
「断じて反対させていただきます、陛下!あれが少しでも人の心を持っていると言うならば、プロアニアから極貧の亡命者が流れてくることなどありません!何故分からないのですか!?彼らは陛下のことを御しやすいカモだと考えているのですよ!」
フッサレル様は身を乗り出し、乱暴に机を叩きます。ぎぃん、という燭台受けのこすれる音が部屋に響きました。
陛下は大きく唸り、顔を伏せてしまいます。
「……わかった、貴公らの意見を尊重しよう」
皆が姿勢を崩します。フッサレル様はゆっくり腰を掛けなおし、すまし顔で崩れた上着を整えます。
「賢明な判断です」
アインファクス様が落ち着いた声で続けます。彼は陛下の左隣に控える私を一瞥した後、机に肘をついて体をフッサレル様のほうへと向けます。
「……待ち受けるどのような悲劇についても、私は覚悟がございますので」
シャンデリアの煌々とした灯りを挟んで、アインファクス様とフッサレル様の視線が交差します。静かに揺らぐ灯は、時折表情を曇らせながら、二人の間を阻んでいるように見えました。
「……ならば堂々としておられるのが良い。実際、あなたの判断は正しいのだからね」
私は何か嫌な予感がして、視線を陛下の手元へと向けます。そこには非常に端的な支援要請の言葉とプロアニアの窮状を伝える言葉が記された手紙がございます。思わず息を吞むと、陛下は意気消沈した様子で立ち上がり、寂しげな背中を議席に向けて執務室へと戻っていかれました。
「お待ちください、陛下」
私は慌てて立ち上がり、速記の議事録を乱暴につかみ、陛下の後を追いかけます。長い宮殿の廊下の中を、老人の寂し気な足音が、悲し気にに響き渡いておりました。