‐‐●1902年秋の第二月第三週、エストーラ、ノースタット2‐‐
夜の帝都は篝火の灯りで道を照らされている。赤い火に浮かび上がるリング・シュトラーセを眺めながら、フェケッテは、煙草を燻らせて舞台座の玄関口にある階段に腰かけていた。
煙草の甘みをフィルター越しに噛み締めながら、日中の宮殿での出来事を思い返す。果実の甘みが舌の上で漂うのにも関わらず、吐き出す息は薄い灰色の煙に過ぎなかった。
パチン、と篝火の薪が爆ぜる。それは寝静まった静寂の中で目立って響き、木枯らしの吹き抜けるのに合わせて炎が揺れる。その周りは僅かな陽炎で揺らいでおり、一寸先も見えない漆黒を入念に隠している。店舗や工房が連なるリング・シュトラーセの外周は、魂が抜けたように静まり返り、舞台座の扉も閉ざされ、沈黙を守っている。
‐‐俺が護衛で来てた時とは大違いだな‐‐
噛んだ煙草を離し、かつての盛況ぶりを闇の中に重ねる。この道には城壁があり、城壁に付いた燭台が足元を照らしていた。そして町には淫靡な雰囲気が溢れ、若者や金持ちの高齢者が、異性を連れて飲み歩いていた。
城壁の周りは丁度この秘め事を楽しむのにうってつけの場所で、燭台の下では常に、股を開いた男女が手招きをしていた。ここから都心へ向けて進むと、眠らない宿屋があり、酒盛りができ、日中の光溢れる喫茶は明かりを抑えたバルに変貌を遂げた。
とにかく喧しく、一人でいるのには居心地の悪い都市であった。しかし、そこには生身の人間が放つ、特有の輝きがあった。
「こんな時間まで起きとるの?」
聞き覚えのある声に、フェケッテは耳を立てる。煙を上げる煙草を再び口に運ぶ。
「お前こそ。こんな時間に危ないぞ」
「お互い様やん、そんなの」
ルイーゼはフェケッテの隣に座りこむ。彼女は無遠慮に足を投げ出すと、足をばたつかせながら、篝火を眺める。やはりこの場所にいる限り、篝火は一種のシンボルとして機能していた。
「フェケッテは、皇帝さんのことが嫌いなん?」
咥えた煙草から灰が落ちる。フェケッテはこれを揉み消すと、首を搔き、唸り声をあげた。
「嫌いっつうか、狡いんだよ。狡い」
「ふぅん。そうなん」
ルイーゼは興味なさげに答える。自分から聞いた癖にと、大人げない不満がフェケッテの胸に込み上げてきた。
「お前は、ヴィルヘルムの……国王のことをどう思うんだよ」
「知らん。偉い人ってだけ」
ルイーゼは即座に答えると、篝火に興味をなくして大きな欠伸をする。フェケッテは煙草を捨て、ポケットから新たな煙草を取り出す。
「なんでそのまま捨てるん?火事になるよ?」
「あーはいはい、分かったよ!」
彼は今しがた踏み消した煙草を持ち上げると、灰皿代わりの平らな石に乗せる。
「だいたい、自分の国の国家元首を知らんで片付ける奴がいんのかよ?」
「だって知らんもん。顔も知らんし、私にはフェケッテの方が大事」
彼は目を瞬かせ、新しい煙草を落とす。彼は慌てて煙草を拾い上げる。ルイーゼが口元を緩めて笑った。
目を覚ます冷えた風が、篝火を揺らした。
「知らん人より、知っとる人の方が大事。だから王様のことも、プロアニアちゅう国のことも知らんし、お国のために戦う人がおってもいいし、お国のために戦わん人も私は別にいいんよ」
フェケッテは煙草を吸いなおすと、ルイーゼからそっぽを向く。耳が僅かに折れ、尻尾がわさわさと動いた。
「落ちたもん吸うの?」
「……うっせ」
副流煙が闇の中を不規則に漂っていく。煙は白く闇の中で滞留した後、新しい煙に押し出されて空へ昇っていく。
フェケッテは毛皮の中で顔を染めながら、踊る心拍数を数えて、ルイーゼの下らない話を聞き流した。
夜の中に浮かび上がる、白亜の芸術。篝火を掲げて立つ疫病記念柱の女神が、町の中心に聳えている。
美しき煉瓦と大理石の街並みには、戸口一面に硝子を張った最新式の店舗が居並んでいる。ガラスの向こう側では、宝飾品や家具、料理のレプリカ、人気の演目を告げるポスターなどが、賑わいの面影を伝えている。
皇帝の膝下であるノースタットという町は、フェケッテには眩すぎるほど眩かった。彼の故郷、二つの川を渡す大きな橋を擁する真珠の都では、コボルト騎兵達が煌びやかな衣装を身に纏い、これ見よがしに皇帝からの下賜品である勲章を胸にぎらつかせて歩いている。彼らは都心に住む官僚たちに頭を下げ、恭しく世話を焼き、報告書の考課欄に秀の印鑑を求めている。
二つの川に注ぐ夕陽の輝きや、壮麗な建造物はノースタットに引けを取らない。しかし、コボルト騎兵達に根付いた服従の証は、彼らをより奴隷らしく振舞わせているように思われた。
しかし、と、フェケッテは常に憤りを感じずにはいられなかった。コボルトはどうしようもなく亜人であり、人ではない。人ではないと人権は与えられず、人権が与えられないと権利義務の主体となれない。彼らが取引を出来るのは、彼らの背後に人の人権があるからであり、それがハングリアの装飾が傾いた王冠であって、それを被るのがエストーラの皇帝であった。
‐‐俺たちには心がある。こうして呼吸をして、こうして何かを思っている。奴隷軍人でも、心まで奴隷ってわけじゃねぇよ‐‐
だからこそ、彼は自分達の心の拠り所が欲しいと感じた。皇帝陛下の膝下、ノースタットの人々が誇るような、一つの誇りを自分の中で持っていたい。
誰かの心の浮沈によって評価されるコボルト騎兵の尊厳ではなく、コボルトがコボルトとして命を育み、その子供が人間に混ざって遊び、『あるコボルト』が『あるコボルト』としての思想を持って生きられるような居場所が欲しい。
その、天界の鍵を握っているのはいつでも、勿論今でも『皇帝陛下』であった。だから、彼はその手から鍵を受け取りたい。皇帝の威光と慈悲による下賜ではなく、コボルト達の選択肢としての決断を。その鍵が開き、門の先が楽園でも地獄でも、『あるコボルト』としての尊厳の下で、生き抜きたい。だから、皇帝に跪きたくない。
冬へ向けて吹く木枯らしが、ごわごわとした体毛を撫でる。泥と垢で汚れた名誉の鎧が、冷え切った風に攫われて逆立つ。
一服のたびに鮮明になる心に、フェケッテ自身が戸惑い、視線も行き場を失って篝火で照らされる疫病記念柱を眺めた。
「ルル」
野太く掠れた声が、分厚い空気を揺らす。フェケッテの視線がルイーゼのそれとぶつかった。
「俺は、何に見える?」
「んー……。フェケッテは、フェケッテよ」
ルイーゼは訝し気に首を傾げる。吐き出した煙が空の彼方へと上っていく。
「……そうだな」
先の見えない街の至る所では、篝火が激しく、その命を燃やしていた。