‐‐1902年秋の第二月第三週、エストーラ、ベルクート宮‐‐
陛下は沈痛な面持ちで、宮殿の自室へと戻られました。ジェロニモ様も同伴で、何とか陛下を支えて登った階段は、普段よりも長く高く感じられます。
陛下は杖を頼りに椅子に座られると、項垂れて、オオウミガラスの陶製人形に手を添えてられます。宮殿の前にあった市民たちの歓迎ムードは、一気に引いてしまい、却ってコボルトへ対する理解の道を遠ざけてしまったように思われます。陛下はオオウミガラスの白い羽毛を親指で撫でながら、椅子に深く掛け直します。
「陛下、お気になさらずに。陛下は類稀なる忍耐で、これまでにも多くの危難に耐えてこられました」
ジェロニモ様が仰います。陛下を傷つけた部下へ対する後ろめたさが、彼に強い罪悪感を与えたのでしょう。陛下は顔を窓の外へと向けて、くぐもった声で仰いました。
「彼らの意見はもっともだ。……私が悪いのだ。共に生きてきた仲間に、奴隷軍人などという枷を与えたままだった、私の傲慢が悪いのだ。まして、許してくれなどと……」
ジェロニモ様はそれ以上に言葉を見つけられずに黙ってしまいます。陛下のお言葉は、何よりも、臣民であるコボルトを傷つけてしまったことへ対する責任からくるものでした。
おいたわしや、陛下。それは帝国の伝統であって、帝国の伝統を重んじる陛下ではどうすることも出来ない問題でありました。
カサンドラ妃が亡くなられた時と同じように、陛下は遠い城壁のあった辺りを見つめておられます。
「陛下。そうして悲しんでばかりはいられません。傷つけてしまった仲間の為に何ができるのかを、考えるべきではありませんか?」
「そうだ。必ず彼らの自由を保障する。私はそうしたい。だが、今は出来ないのだ……」
「その通りです、陛下。今コボルトに自由を保証すれば、帝国陸軍に甚大な損失が生じる恐れがあります。そうなれば、プロアニアの攻勢を止められる者はいなくなるでしょう」
ジェロニモ様は沈んだ声で仰いました。コボルト騎兵という帝国髄一の忠実な軍事力は、護国の最も重要な柱の一つでありました。
陛下は帝都に降り注ぐ斜陽を、そのままの姿勢で見つめております。
「今年の謝肉祭は、穀物庫を僅かでも潤わせる為に自粛することになるだろう。その分を少しでも、彼らの労いに充てて欲しい」
陛下の虚ろな瞳は、沈みゆく夕陽に染まる空の色をそのまま映しています。
政治的に正しさを求めて行けばいくほど、世界は牙を剥き、精神を苛んでいく。この斜陽が、帝国最後の輝きでないことを祈るのは、果たして間違っているのでしょうか?
「畏れながら申し上げます、陛下。私は、今後も彼らに国防を任せる必要は大きいと考えています。彼らの自由を保障することも重要ですが、何よりも、現在の危難を乗り越えることを考えて下さい。そうしなければ、私達は全てを失うことになりますよ」
ジェロニモ様は陛下にそう伝えると、所謂『犬狩り』の再開時期について、手短に伝えられます。それは、ほんのわずかな労いの時間の後、さながら彼らコボルト騎兵を帝都から追い出すように派兵するという算段でした。
身を起こし、陶製人形から手を離した陛下は、物憂げに執務机の上を見つめながら、ジェロニモ様の御奏上に耳を傾けておられます。
「分かった。君の意見を尊重しよう」
ジェロニモ様は深く頭を下げると、彼の執務室へと戻っていかれます。空が暗い色に染まり始めると、僅かな星々が、リング・シュトラーセの外側で瞬き始めました。
「よろしいのですか、陛下」
コボルト騎兵達の心を逆撫でするような辞令を、陛下が承諾されるとは到底思えませんでした。
「ノア。残酷なことだが、ここにいたら、却って彼らの命が危ういと思うのだ」
帝都市民が何よりも嫌う、不敬と侮辱。その双方を背負わされてしまった騎兵隊長の小さな背中が、再び脳裏を過ります。私は陛下のお心遣いを尊重して、それ以上の言及を差し控えることにいたしました。
「陛下。お茶をお出ししますね」
「有難う。私は水でいいよ」
陛下は困ったように笑われます。私は水差しを持ち上げて、部屋を後にしたのでした。