‐‐●◯1902年秋の第二月第三週、エストーラ、ノースタット‐‐
失敗知らずのコボルト騎兵隊長、通称フェケッテより、作戦失敗の報告を受けたのは、秋の第二週に行われた犬狩り作戦決行のほんの数日後のことでありました。状況の迅速な調査に当たるために、陸軍相であらせられるジェロニモ様は霊山の麓にある小都市インセルへと急行され、現在、隊長らの部隊を連れてエストーラへの帰路にあります。
陛下は落ち着かない様子で椅子に座っては立つのを繰り返し、僅かな物音がするたびに、背を伸ばして窓の外を覗き込むことを繰り返しておられました。
「嗚呼、心配だ。コボルト騎兵達は無事だろうか?」
「陛下、被害は小規模にとどまると伝え聞いております。ご安心してお待ちください」
陛下はいつもの調子で謝罪をすると、一旦席に着かれました。しかしやはり気懸りなご様子で、直ぐに立ち上がっては水晶の中をのぞき込んだり、窓の外を眺めたりされました。
これでは仕事が手に付きません……。陛下が心労で倒れてしまいそうで、私も落ち着きなく足の重心を変えたり、良い話題を振ったりと気分を逸らしておりました。
やがて窓の向こうで凱旋用の鼓笛隊の奏楽が響き始めます。陛下は飛び上がり、窓を凝視すると、慌てて上衣掛けに駆け寄り、上着を着こまれます。窓の外を一瞥すると、落ち着いた秋の葉色の中に、軽装のコボルト騎兵達が驢馬を駆って前進しているのが見えました。
「陛下、落ち着いて下さい。彼らは十分に無事な様子です」
私は陛下の乱れた上衣を整えると、銀の杖を手渡します。陛下は深呼吸をすると、私の差し出した杖を受け取り、ようやく落ち着きを取り戻されました。
「ひとまず、彼らが無事であったことが何よりだ……。労いの準備をさせてくれ」
「分かっています。先ずは、陛下の元気なお姿を見せてあげてください」
私は陛下がジェロニモ様から受け取った報告書を、陛下から受け取ります。そこには、コボルト騎兵達へ対する措置について、黒いインクで詳細に記されていました。
細かな筆遣い、不必要なほどの詳細な説明、いずれも陛下のお人柄をよく表すものでした。私は報告書を四つ折りに畳んで胸ポケットにしまいます。賑やかな鼓笛の音が、町に久しぶりの賑わいを運んでおります。
「陛下、それでは、直ぐにでも帰還兵たちを安心させてあげてください」
陛下は目を細め、心底安堵した様子で仰いました。
「いやいや、私が安心するために行くんだよ。彼らが生きて帰ってきて、本当に嬉しい」
陛下は年不相応に気さくに手を振ると、軽やかな足取りで、玄関へと向かわれます。時折地面をつく銀製の杖の音は少し上ずって響いておりました。
大通りを歩くコボルトの一団は、帝国の国旗を振るう人々の大歓迎を受けて、きょろきょろと落ち着きなく回りを見回していた。
普段は命の危険を冒して歩いていたこの道を、今彼らは自らが皇帝と同じような歓迎を受けて歩いている。目を弧にして笑う群衆は、どれ一つ彼らには違いが分からなかった。
「どの人が隊長さん?」
「あの一番前の人だよ」
フェケッテは、親子連れの声に耳を立てる。コボルトが人間の違いを解さないように、逆もまた然りということである。彼は苦笑いを零すと、人間たちから「嬉しそうだ」と身勝手な声が届く。彼の耳には聞き分けられるのに、人間たちはこの雑踏の中にある声一つ聞き分けることが出来ないのだろう。そう思うと、途端に皇帝が不憫に思われた。
宮殿へ向けての行進は、遮るものもなく続く。かつて皇帝にナイフを突きつけた、あの政治犯の声も耳に届いた。皇帝陛下の寛大さにはほとほと愛想が尽きるばかりである。
宮殿の入り口に至ると、銀製の杖をつき、腰を僅かに曲げた老帝が彼らを出迎えた。昔気質のコボルト兵達は、一斉に跪き、いつでも食い殺せそうな細い足元を見つめる。
大歓声が宮殿の入り口を埋め尽くす。人間の、ぎらぎらとした眼差しが、彼の背中をすり抜けて皇帝に向かっている。
冬迫る秋、木枯らしを受けて枯葉の落ちる音が高くそばだてた耳に届く。異変に気付いた群衆が、一向に跪かないフェケッテに、奇異の視線を送る。
皇帝は彼の侍従長から何かを受け取る。ポケットに手を突っ込んだまま立ち尽くすフェケッテを、跪く騎兵一同が不思議そうに見上げた。
群衆の歓声が途切れ、落ちた枯葉が踏みつけられて割れた。
「悪いな、皇帝さんよ。任務に失敗した」
群衆が埋め尽くす宮殿の門を、茶色い髪色と日焼けで顔を赤くした農民が潜ってくる。その中には、ぼんやりと秋の空を見つめる、村娘の姿もあった。
群衆にざわめきが起こる。この汚れた服を着た村人が、一体何をするというのか。皇帝陛下を何度も襲った悲劇を想起して、一部の老人が固唾を飲んだ。
「……俺は後悔しちゃいないけどな。俺は俺なりに正しいと思ってした選択だ。解任するなら解任してくれ。別に俺を殺したって良いぞ」
群衆が騒めきだす。不穏な空気に触れて、木枯らしが枯葉を攫っていく。
皇帝は一瞬驚いて目を瞬かせたが、やがて柔和に微笑むと、乾燥した肌に当たる冷たい風と共に、フェケッテに近づいた。
コボルト達の立った耳に、『不敬』の囁き声が響く。帝国の威信を傷つけたという、ノースタット市民が考える最も重い罪の一つである。
分厚い毛の下から脂汗が染み出す。コボルト達は隊長を守るために、忠義を破ることは出来ない。
『奴隷軍人』と『皇帝』が、胸を張って向かい合う。片や背中に後ろ指をさされ、片や仄暗い暗殺未遂事件の影を背負って。
皇帝は、静かにフェケッテの懐に近寄ると、彼を抱き寄せる。長い沈黙の後、ヘルムートが静かに身を逸らすと、彼は手に忍ばせた犬鷲勲章を、フェケッテの薄い戦闘着につけた。
殆ど泣きそうな笑顔で、ヘルムートは微笑む。秋風が地上の枯葉を攫った。
「命を守ってくれて有難う。君たちは、私達の誇りだ」
群衆から、割れんばかりの大歓声が響く。やはり善人皇帝は徳の高い人だと、大衆の中から口々に言葉が漏れる。その声が、ピンと立ったフェケッテの耳に届いた。
思わず小さな舌打ちが零れる。持ち上がる上唇から、牙と歯茎が剥き出しになった。
「……こんなんで、ガキが腹一杯食えるのかよ!?」
歓声が静まり返る。老帝に剥き出しにされた敵意は、当たるべき相手もないままで、ただ空気を震わせた。
「皇帝陛下、皇帝陛下よぉ!あんた達がこうして安全な場所で身を隠しているときに、一体何人死んだのか、わかってんのか?ああ、お望み通り言い換えてやるよ、一体何匹死んだんだよ!?なぁ!」
フェケッテは皇帝の胸倉を掴む。皇帝の眼に薄く張った涙が溢れた。
『コボルト騎兵』とは、エストーラ帝国の北西一帯に広がる広大なハングリアの騎兵部隊である。彼らの名は帝国中に轟き、今や世界の大きな小国と成り果てたエストーラの軍事面を強力に支えていた。
そして、彼らは皇帝の支配する帝国の領土の中にあって、その文化を踏襲する奴隷軍人でもある。確かに、彼らには市民権を得る道があったが、それは、奴隷であるコボルト騎兵達に『人権を与える』措置に過ぎない。彼らは人間ではなく亜人であり、奴隷である。それはどうしようもない事実であった。高尚なノースタットの市民たちが、フェケッテに怒号を浴びせる。
曰く、
「そんな言い方はないだろう!」
「私達に苦しめとでもいうのか!」
「軍人としての忠義を全うすべきではないか!」
不幸なことに、どれもこれも、フェケッテの耳にはしっかりと届いていた。そして、皇帝の耳には一部しか届かなかった。
「やめて下さい、彼らを責めないで下さい!彼らは人の命を救った……」
フェケッテが掴んだ皇帝の胸倉を引き上げる。怒りに震える眼は暗い光を湛え、剥き出しの牙と歯肉の間から、温い息が零れた。
「だったら俺がこの手をどれだけ血で汚したのか、教えてやろうか?あんたの大事な、大事な『命』で汚した数をよ!」
「……君の言う通りだ。この老いぼれには、君たちにしてやれることは少ない……。許してくれ」
コボルト奴隷の隊長が唸る。彼は舌打ちをすると、皇帝から手を解き、肩を怒らせて去っていく。宮殿の門を囲む群衆の波が、割れるようにして彼に道を譲った。
秋の罅割れた風だけが、皇帝に重くのしかかった。