‐‐●1902年秋の第二月第二週、プロアニア、シャモナ村‐‐
「なんじゃあ、騒がしいのぉ」
若い村娘は目を擦りながら窓を開き、鳥の鳴き声がする方角を覗き込んだ。そこには、隣村のあるあたりから煙が立ち昇っていた。
「……山火事でねか?」
村娘は目を瞬かせる。濛々と立ち昇る煙の柱の根元には、炎が波打っているのが見えた。村娘は慌てて寝室を飛び出す。リビングで転寝をしている両親を見つけると、彼女は二人の肩を揺すって起こした。
「なんでぇ、朝にはちと早ぇべ」
鬱陶しそうに両親が寝返りを打つ。地面に藁を敷いただけの簡素な床が、ぞり、と大きな音を立てた。村娘は二人をひっ叩いて無理やり起こす。
「外みてみぃ、山火事だべ」
「んぁ、山火事!」
ようやく目覚めた二人は一斉に起き上がる。素っ頓狂な声を上げた農夫は、慌てて扉のない出入口から顔を出す。彼は鼻をひくつかせると、「や、や、や」と唇を震わせた。
「山火事でねぇ!ありゃあ山賊が焼き討ちに来たんだ!」
「なぁ!?焼き討ち!」
今度は村娘が悲鳴を上げる。農夫は慌てて壁に立てかけてある三叉の鍬を握りしめると、村の集会所へと飛び出していった。
「父ちゃん、あぶねぇ!戻ってこい!」
村娘は農夫の後を追いかける。農夫は鍬を肩にかけながら、緩やかな丘を下っていく。疎らにある平屋の屋根には、交換を待つ茅が葺きつけられている。やはりそこにも、異変に気付いた人々は居り、不安げに山を覗き込んでいる。
村娘は古い衣服の裾を持ち上げながら、必死に農夫を追いかけた。集会所のある村の中心部まで下っていくと、既に村長や狩人などの、高齢化した村の男たちが集まっていた。
「な、なぁ、あれ、大丈夫なんか?」
「大丈夫には見えねぇなぁ」
「とにかく、山賊がこっちこねぇように村の入り口を塞ぐでな」
集まった人々は各々自由に返事をすると、村の出入り口となる四方へと散っていく。彼らはそれぞれの家の付近にある防獣用の背の低い柵のところへと登っった。
突然方向転換をして、家の方へと戻ってくる農夫を、村娘は腕を摩りながら待つ。農夫は愛娘を見つけると、鍬を肩に担いだまま、空いた手で彼女の肩を叩いた。
「俺、バリケード張って来るでな。大人しぃ待っとれよ」
「大丈夫なんか?」
「んー、わかんねぇ」
彼はそう言うと、娘に手を振って、棚田のように傾斜がある畑の畝が延々と続く道を上っていく。薄い革靴が道中の石を踏みつけると、農夫は間延びした声で「いってぇなぁ」と呟いた。
一人取り残された村娘は、不安げに火元を見上げる。巨大な畝の向こう側から、くすんだ灰色をした煙が迫って来る。隣村と言えど、傾斜のある山岳には森の木々が立って隔てるだけであり、木造家屋まで延焼する恐れは、何も心配のしすぎというほどではない。徐々に煙たく、巨大になっていく炎の猛りは、森の向こう側から先んじて到着する煤の欠片が次第に増えるに従って、彼女にとっての現実の脅威として実感せしめた。
「どうなってんだ?おらんところからでも火ぃ見えとるぞ」
通り過ぎていく老人二人が不安げに語らっている。彼らは娘とは反対方面に住む村人で、地元では薬師として、病人に対して民間療法による治療を施している。
「本当に山賊の仕業なんか?」
村娘はますます不安になった。何かもっと巨大な組織による、略奪なのではないか?
しかし、この村には何も奪うものなどなかった。金になるようなものは一つもない。だからまだ平和なのではないか?彼女は炎上する隣村にある珍しいものを指折り数える。
東の隣村は古い教会があり、そこには古い写本がたくさんある。物知りの歴史学者などが時折訪れるから、その類かも知れない。西の隣村には、大きな集会所があり、村長が大切にしているコインのコレクションがある。それは大層大事にしてみんなに自慢しているのだから、マニアが垂涎の品なのかもしれない。
全く別の組織が同時に似た位置にある村を襲うことなどあるだろうか?娘は考えすぎて頭を混乱させ、思わず眩暈を起こした。彼女はふらつき、煙が漂ってくる方に倒れこみそうになる。
「おっと、お嬢さん、大丈夫かよ?」
東方の都市訛りの上品な言葉遣いが聞こえる。薄く目を開けると、赤い肌と毛皮のコートを着込み、オオカミの毛で繕ったであろう帽子を目深に被った男がいた。
「ん……ちょっと考えすぎただけだ。寝てりゃ治んべ」
「そりゃ良かった。煙吸い過ぎんなよ」
彼女の視界が鮮明になっていく。そこには、長く赤い舌を出した、犬の顔があった。彼女は、驚愕のあまり飛び起きてしまう。
「ほわ!コボルトでねぇか!何ぞこんなところにおんの!?私食ってもうまくねぇよ!」
コボルトは呆れ顔で彼女の頭を軽く小突く。飛び起きた反動も手伝って、彼女は頭の重さに思わず項垂れた。
「人間なんて筋ばっかで食ってもうまくねぇよ」
「お、そ、そうかぁ……。いや、なんでこんなところにおんの!?」
彼女が大声を上げると、すかさずコボルトはその口を覆う。そのまま物陰まで引きずりこむと、コボルトは彼女に旧式の銃口を突き付ける。彼女は血の気が引き、言葉を失う。村人たちが通り過ぎるのを確かめたコボルトは、銃を下ろし、口から手を離した。
「悪いな、見つかるとまずいんだよ」
彼女は口の中に入ったコボルトの体毛を苦しそうに吐き出す。
「そんで、なんでこんなところにおんの?」
コボルトは立ち昇る煙の方角を睨みながら答えた。
「俺たちは、食糧を分けてもらいに来たんだとよ」
「食糧?村にもあんまりないよ?全部兵隊さんが持ってくけんねぇ」
コボルトは足を投げ出し、煙草を取り出す。これを咥え、マッチで火を点けると、煙を大きく吸い込んで溜息を吐いた。口から零れた煙に村娘が咳き込む。コボルトはそれを一瞥すると、体を僅かにずらして距離を置いた。
「どこの国も一緒なんだな。俺たちみたいな末端は捨て駒だよ」
「お国の為に働くのだから仕方ないことよ。偉ぶった兵隊さんもおるけど」
村娘は落ち着きを取り戻し、コボルト同様に足を投げ出した。隣村の惨状がこちらに迫る前に、どうやら火事は収まりそうである。
「私はルイーゼ。ルルって呼ばれとんよ。あんたは?」
コボルトはふかした煙草をゆっくりと吸い込む。鼻から零れた呼出煙が空へ上っていく。ルイーゼは投げ出した足を揺すりながら首を傾げる。煙草を噛む大きな口が、牙を剥いて笑った。
「フェケッテとか呼ばれてるぜ。この火事の犯人は俺たちの仲間だ。悪いな」
フェケッテは収まり始めた炎の中を睨む。噛み潰されたフィルターごと、煙草を吐き出すと、彼は伸ばした足を立てて揉み消した。
ルイーゼは首を傾げたまま悩まし気に眉根を寄せる。
「でも、腹が減ったらあかんよ。力も出んでな」
「ふふっ。まぁ、その通りだな」
二人は暫く足を投げ出したまま隣村を見守る。バリケードを張り終わった村の男たちの半分が、集会所へ向かって丘を下っていく。二人は黙って耳を傾けた。
「しかしおっかねぇなぁ。今度あっちに行ったら食いもん持ってかなあかんな」
フェケッテの耳がピンと立つ。ルイーゼは耳の細かな動きを面白そうに見つめている。
「ついでに何が起きたか聞いてこんと」
彼らは集会所に戻ると、地面に胡坐をかき、村の巡回について話し合っている。フェケッテは耳を立てたまま、ルイーゼに声をかける。
「付き合わせて悪かったな。俺のことは内緒にしてくれよ」
ルイーゼの返事を聞く前に、彼は飛び跳ねるように、軽やかに駆けていき、森の中へと消えていった。
「あっちの兵隊さんも大変なんねぇ……」
ルイーゼは首を傾げる。森から飛び出した鳥たちの影が、星々の間を渡って消えていった。