‐‐1902年夏の第三月第三週、エストーラ、ノースタット2‐‐
老帝はオオウミガラスの陶製人形と向かい合いながら、書き物を続けていた。配給所の設置に関する諸申請に、独特なサインを次々に残していく。光を遮る執務中の老体が、僅かに二人に向いた。
「アインファクス君とフッサレル君か。何か相談かね」
皇帝は老眼鏡を外す。瓶底のような分厚い眼鏡が、机上のサインを拡大させた。
「ええ。ウネッザの臣民を保護したため、食糧の負担に限界が達している件について、良い解決策を奏上したく、お伺いいたしました」
皇帝の表情が僅かに晴れる。フッサレルは思わず視線を逸らした。
胃のむかつきを堪え、彼は笑顔を作る。アインファクスの無表情とは対照的なぎこちない笑みである。
「皇帝陛下、ヴィロング要塞の戦線はカペル・プロアニア各陣営に大きな負担を強いています。此度の戦は挙国一致の総力戦であり、人的な損耗は少ない我々も、予断を許さない状況が続いているわけです」
「その通りだ。私が後先考えずにとった選択が、致命的な悲劇を生んでいる」
アインファクスは咳払いをする。眉尻を下ろしたヘルムートは、短く「すまないね」と言った。
「陛下、現状の総力戦は、通常であれば一般の国民が不満を持つことは無理からぬことです。そこで、プロアニア王国に所属する、我が国国境付近にある近隣の村落に対して、食糧を工面して頂くのです」
フッサレルは思わず声を上げる。額縁の中では、梟が注意深くアインファクスを観察していた。
「そんなことが可能なのか?」
ヘルムートが尋ねると、アインファクスは穀物庫に保管された食糧の明細を提示してみせる。皇帝は机上に置いた老眼鏡を持ち上げてこれをかけた。
「我が国の食糧備蓄はいずれにしても限界寸前です。しかし、プロアニアの食糧状況はさらに悪いでしょう。ですから、この農村の離反は、敵国にとっても少なくない打撃となります。それだけでなく、山岳地帯の農民たちはプロアニアに必ずしも協力的ではない。そして、非協力的なことが、ばれにくい土地にいるのです。ですから、これらの諸村落から、食糧を預かりながら彼らのプロアニアへの些細な反抗心に協力を示せば、双方に益のある取引が成立するのです」
アインファクスは早口でまくし立てる。皇帝は自国の酷い食糧事情を1枚1枚丁寧に確かめると、額を軽く拭い、家臣らの方を不安げに見上げた。
「私には、臣民を守るという第一の責務がある。それが有益な取引であるならば、是非とも、山岳地帯の友人たちに協力を仰ぎたいと思う」
皇帝は資料を返す。アインファクスは短い礼を言うと、続けて口の端を持ち上げて笑った。
「陛下、賢明なご判断だと思います。主もこうした善行を、常に見守られているでしょう」
彼は深く頭を下げると、早足で皇帝の部屋を出る。呆気に取られていたフッサレルが、慌てて皇帝に挨拶をすると、アインファクスを追いかけるように急いで退出していく。
皇帝の執務室を出たフッサレルは、息を切らせながらアインファクスの前方を塞ぐ。アインファクスが動こうとすると、フッサレルはそれに合わせて彼の行く手を阻んだ。
二人は静かに睨みあう。フッサレルは呼吸を整えると、手を下ろして無表情な男を見た。
「何故、陛下を騙したのですか?」
「騙してなどいません。彼らに『協力を仰ぎ』、『それに応じてもらう』と奏上したまでです」
フッサレルは首を横に振った。少なくとも彼は、目の前の男ほどは割り切りの良い性格ではなかった。
「その為に武力を行使するというのですよね?」
「法規上問題なく、また先に侵攻を開始したのはプロアニアであるため、国際法上も問題はありません」
「そういうことを聞きたいのではありません。私が聞きたいのは、『皇帝陛下に隠し事をしたのは何故か』ということです」
水差しの替えを持ち、階段を登ってくるノアが騒動を見て駆け寄ってくる。アインファクスは二人に同時に届くほどの大きな声で答えた。
「君主は国家第一の僕ではないのですか?それとも、全ての国の民を救う超人的国家エストーラを、貴公の主は目指しておられるのですか?」
フッサレルが思わず狼狽える。アインファクスは窓際の僅かな隙間を早足で通り抜ける。
「絵空事で救える命などないのだと、肝に銘じておきなさい」
フッサレルが静かに両手を下ろす。窓から差し込む真夏の日差しが、彼のつむじを蒸し上げる。沸々と温度を伴った頭には、青筋が浮かんでいた。
フッサレルは言葉にならない奇声を上げ、ノアのすぐ隣にある花台を蹴り上げる。陶製の花瓶ごと倒れたそれは、高い音を立てて、廊下を水で浸した。
フッサレルは肩を怒らせながら去っていく。一人取り残されたノアは、急いで割れた花瓶を処理すると、皇帝の執務室へと駆けて行った。
陛下のご無事を確認した時には、本当に安堵の溜息を零してしまいました。鬼気迫る表情の私を見た陛下は、サインの為に筆を持ったまま、目を丸くして私を見つめました。
「ノア、どうした?先ずは、水を飲みなさい」
陛下はそう仰ると、私の運んできた水差しからコップへと水を注ぎ、それを私に差し出されます。私はそれを受け取ると、一気に飲み干します。冷水が潤いと安堵を乾ききった喉へと運びます。私は慌ててお礼を述べると、陛下は表情を和らげました。
「ノアも、慌てることがあるのだな」
「いえ、本当に、早とちりしました……失礼いたしました」
「構わないよ。心配をかけてすまないね」
陛下は筆を取り直し、認可のサインを書き込みます。認可は、日常業務の一つではありますが、昨今では食糧配給所の建設申請や、ノースタット市内での新たな兵器工房の設立依頼など、戦争にまつわるものが増えておりました。
「さっきアインファクス君とフッサレル君も来てね。プロアニアの農民と取引をするそうだ」
「プロアニアの農民ですか……?」
陛下は微笑みながら、予算審議会の資料に認可のサインをされています。こうした資料を見ると、本年も赤字だという、リウードルフ様のつぶやきが思い出されます。観光客の激減は、我が国にとっては大きな損失だと言えましょう。
「プロアニアの国民の中で、私達に与しやすい国境の人々に、食糧を分けてもらえないかと交渉する旨の提案だったよ」
「それは……」
静かな室内に、ペンが紙を擦る音だけが響きます。陛下の表情を見て、それが不可能な交渉だとまでは、私には到底言えませんでした。
激しくなった夏虫の鳴き声が、宮殿の壁に浸み込んでいきます。がらんどうの大通りは、今まさに悲鳴を上げんとするこれらの臣民らの悲しい歌声で満ちておりました。宮殿の庭園も、深緑の葉で満たされ、芝生と木々を僅かに影の輪郭だけが区切っております。開けた窓からは温い風が入り込んできました。
陛下はぴたりと筆の動きを止めます。その表情は普段通りの、どこか物憂げなものとなっていました。
「……交渉が決裂すれば、どのようなことになるのかを、私も予想できないではないよ。……ただ、この災害には、一縷の望みに縋りつくよりほかにはないという、抗えない力があるのだと思う」
陛下は静かにペンを置き、数枚の資料を残して、窓の外を覗かれます。閑散としたリング・シュトラーセの一角に、烏が集っております。彼らはけたたましく鳴き声を上げながら、満杯のごみ箱に足をかけて中身を啄んでおりました。